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回想 第五章 208

第208回
 「大丈夫かな?」裏切られたくない期待を守るように、ある小心な老人がつぶやいた。
 「ただではすまんだろうな。」責任の所在を自分からはずすように、無責任な老人が他人事のように言った。
 「もしかすると、もしかするかもしれんぞ。」これから起こる惨事を確信しながら、おもしろがるようにまわりをながめていた、慎重な老人が言った。
 この聴衆の外側にいた駅長と坊主も、はじめこそ冷やかすようにながめていたが、今では皆と同じように不安と期待をあわせ持って、熱心にうそつきの動向をうかがっていた。そしてこの緊張感に折れるようにして坊主はつぶやいた。
 「もうやめればいいのに…。」
 「やめるのには、もうおそすぎるよ。」瓜実顔の老婆は不安そうに両手を胸の上に組み合わせながら、答えた。「ほら、もう飛び降りようとしているよ!」
 「だってあいつは、二日前まで自分で歩くこともできなかったんだぞ。」坊主が無駄とわかりながら訴えた。「それがあんなところから飛び降りれば、どんなことになるかなんてわかりきったことじゃないか!」
木の上にいたうそつきも、聴衆の異様なほどの関心を感じ取っていた。自分の胸が高揚し、足が震えているのも感じていた。下を見ると地面がはるか下方に見え、夢見心地で祈りを唱えていると、うそつきには自分の足がどこにあるのかもはっきりとわからなくなるのだった。喉が渇き、汗がしたたりおちた。そして声は上ずり、祈りの内容も明瞭にならなかったが、うそつきは目を閉じて懸命に何度も祈った。まるで目を閉じて祈ると、次に目を見開いた時、すべての悪夢のようなできごとが好転しているとでもいうかのように…。
 そのとき突然うそつきの祈りが止まった。覚悟を決めたうそつきが最後の祈りの前にふと目を開くと、そこにうそつきにとってまったく予期しなかったものが目に入ったのだった。うそつきは聴衆の頭上のはるか向こうに視点を合わせたまま動かなくなっていた。しばらくうそつきが黙って枝の上に立っていると、聴衆もうそつきに起こった異変に気づきはじめた。聴衆がさそわれるようにうそつきの視線につられて振り返ると、そこには音もなく忍び寄ってきていた雨雲が広がっていた。

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