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仏教について:金剛般若経

以前、般若心経の訳を読んでみたいと思い、「般若心経・金剛般若経」(中村元・紀野一義訳注)という本を読んだことがありました。

でもいざ読んでみると、般若心経よりも金剛般若経の方が興味深く思えました。

訳者によると、この経典は西暦150年から200年くらいの、大乗仏教の最初期に成立したそうです(同本p.202)。そしてそこには、裕福で豪華な供養や寄進ができる人たちよりも、経典を読みとなえることの方が尊いことなのだと説かれていて、どちらかと言えば社会の特定の富裕層というよりも一般庶民に向けられた教えだったそうです。

その中でも二ケ所印象に残る言葉がありました。

一つ目は、師(仏陀)がその弟子(スブーティ)に「尊敬さるべき人」について質問するところです(同本p.63)。

師が、「『尊敬さるべき人』が、『わたしは、尊敬さるべき人になった』というような考えをおこすだろうか」とその弟子(スブーティ)に問うた時、弟子は以下のように答えました。

「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、『わたしは、尊敬さるべき人になった』というような考えをおこすはずがありません。(中略)…尊敬さるべき人が、『わたしは尊敬さるべき人になった』というような考えを起こしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになる…」と答えたようです。

もう一つは、師が「如来」について弟子に質問するところです(同本p.111)。

師が「如来が、この上ない正しい覚りを悟ったというようなことがなにかあるだろうか」と問うた時、弟子が「如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことはなにもありません」と答えます。

それに対して師が、「そのとおりだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、『この上ない正しい覚り』と言われるのだ」と説明しています。

以上の二点を簡単に要約すると、「尊敬されている人は、自分が尊敬されているとは思っていない」し、「覚りをひらいた人は、自分が覚りをひらいているとは思っていない」と言えると思います。

その上で、前回に書いた親鸞の言葉とその解釈を思い出してみたいです。

「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人が往生とげるのであれば、悪人こそ往生できるはずではないか)」

吉本隆明さんの解釈によると、「自分のことを『善人』と認識している人が往生できるのであれば、自分の事を「悪人」と認識している人こそが往生できるのではないか」と説明しました。

これは謙虚に自己を認識するということにおいて、とても大切な指摘だと思います。

ただこの解釈で問題なのは、自分の事を善人と思うのは易しいですが、謙虚に自分の事を「悪人」と認識できる人がどれだけいるか、ということです。

親鸞が本来目指していた、衆生を助けるということを目的としていたことを考えると、自分の事を謙虚に認識していた人だけを助けようとしていたとは思えません。

司馬遼太郎は、人類史上数えるほどしか出ない「善人(解脱した人)」ではなく、あまたいる「悪人(衆生)」こそ、阿弥陀仏にすがれば助けてもらえると解釈しました。

謙虚に自己認識ができる人はそもそもあまりいないように思えます。善人であると認識しないまでも、悪人とも思えないのが実情ではないでしょうか?

そこで親鸞のこの言葉について、以下のような注釈を提案してみたいです。

それは、「自分の事を悪人と認識できるくらいの善人だけが救われるのではなく、自分のことを善人と思ってしまう悪人も、救われるのだ」というものです。

少し屁理屈のような解釈ですが、自分含め、謙虚になりきれない人たちも救ってもらえるというひそかな安堵感があり、個人的にですが救いが感じられる気がします。

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