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回想 第五章 213

第213回
 駅長は少し考えてから、死ぬとどうなるのか影に尋ねた。
 影は、クスクス小さく笑いながら言った。
 「こわいのですか?」
 駅長はなんと答えたらよいかわからなかった。こわくない、と言えばウソになるが、気を失うほどこわくはなかった。駅長は、苦しくなければこわくはない、と答えた。
 「苦しくはありません。ただほんの少し息苦しくなるだけです。それだけです。わたしが合図したら横になって目をつむってください。そうするとしばらくのあいだ息ができなくなって、もう気がつかないうちに死んでますよ。」
 駅長は、息が止まってしまうのはこわいので、別の方法はないか、と尋ねた。
 「あなたが思っているほどおそろしいものじゃあないです。心配しないでください。もちろんどうしても、と言うのなら別の方法もあるにはあるのですが、あまりおすすめはできませんね。たまにわたしの要求に応えずに、いつまでたっても目をつむってくれない人がいるのですが、そんな場合はこうやって喉を無理やりしめつけなければならないんですよ。」影は細くて長い指を広げて、ぎゅっとつかむしぐさをしてみせた。「もちろんあまり気持ちのいいことじゃありません。わたしとしても出来れば避けたいですしね。じゃあ、そろそろ駅長さん、今生に別れを告げますか?それともまだ何か聞きたいことがありますか?」
 駅長は、どうして数日前、駅長が死のうとしていたのを止めたのか尋ねた。
 「それは心外な質問ですねえ。止めないほうが良かったですか?」影が皮肉をこめて言った。
 駅長は、そういうわけではない、と答えた。
 「以前も説明しましたけど、あなたが寿命の尽きる三日前に死のうとしてるので、『もう少し待ってみては?』と提案してみたまでです。実際のところどうなんです?待ってみて良かったですか?」
駅長は、うなずいた。
 「ほう。」影は感心し、興味深そうに尋ねた。「どう『良かった』のですか?」
 駅長は、この数日間を振り返ってみた。まず、自殺を決心した夜、影が突然あらわれた。そしてその翌日、うそつきとの出会いがあった。それから体調をくずして、寝ていると、ハエの訪問があった。その夜に雨が降り、医務室の待合室でうそつきの独白を聞き、その夜詩人が自殺した。翌日詩人の葬儀があって、詩人宛の掃除婦の手紙を読み、掃除婦の弟が書いた物語を読んだ。その後夜を徹して遺書を書き、そして今あのうそつきの騒動に出会った。こう振り返ってみると、この数日間は、駅長の人生の中にあったどの数日間よりも印象深いものだったように思えた。だからあの夜、影に自殺を止めてもらわなかった方が良かった、とはとても駅長には考えられなかった。むしろこれらの出来事を経験できなかった場合を考える方が、駅長にとって駅長の人生は不完全であったような気がした。今、寿命尽きようとするこの瞬間に、ある微かな心の高揚をおぼえているのも、この数日間の経験があったからであった。しかし、何が『良かった』のかいまいち駅長にはよくわからなかった。そして説明することもできそうになかった。ただこの微かな高揚だけが、この数日間に対する満足感を証明するものであった。この数日の間で、何が変わったのだろうか?駅長は考えてみた。そしてこの高揚感は何であるのか、考えてみた。

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