知識を得るということ


こんにちは〜
KIDOAです。

今日はふと友人たちと会話していて感じたことを書き連ねます

知識を得るということとは

まぁそんなことをざっくばらんにかきます。

よくZ世代って責任を嫌うだとか、無駄なことを嫌って効率を選ぶだとか、こんな印象を言われますよね

大きな主語で数多の人類を括るんじゃぁないよって気もしますが、そんな話をしていてふと「ダンタリアンの書架」というアニメの「叡智の書」という回が浮かびました。

(ダンタリアンの書架は名作なのでぜひご覧いただきたい)
この「叡智の書」は読んだものに『世界の全ての知識を与える』というもの。
この回では、とある教師に対して、対抗心に燃えた別の教師が生徒に「叡智の書」を与えてしまいます。

生徒は歴史や科学、文学だけではなく、経済や政治に至るまでの大量の知識を身につけていき、叡智の書を与えた教師が「あれは化け物だ」と慄くほどまで成長を遂げます。


では全ての知識を持った生徒はどうなったのでしょうか。

革命家となり、政府に対して革命を起こしたのでしょうか。
科学者となり、得た知識を広めたしたのでしょうか。

生徒は何もしませんでした。
何も行動を起こさなかったんです。

主人公が「なぜ何もしないのか」と問いかけると

生徒は「革命を起こすにせよ、知識を広めるにせよ、そんな労力のかかる無駄なことをするのは、アホがすることだ」と
続けて「何もせずに暮らしていくことが、最も楽で頭のいい生き方だよ」と答えました。

そうして物語は「有名な発明家とかって、すごく頭が良いとかではなくって『諦めが悪い人』よね」という言葉とともに、「もうこの本は必要ないから」と返された叡智の書を焼き捨てて幕を閉じます。

あくまでも、このアニメで表現した「知識を持った人間の末路」ですが、人間が全知識を得た先として、「メリットとデメリットを天秤にかけ、賭け事のようなこと(挑戦や冒険)は極力避け、最低限生きられるだけの安全策を取るようになる。」という結論を示しました。

ここで今のZ世代に置き換えると、スマホが叡智の書に当たり、幼い頃から大量の知識(情報)を得られる環境で育ってきた彼らが、責任を嫌ったり合理性を求めるというのは少し納得がいきます。(もちろん、他にもいろんな要素があります)

ただ、スマホと叡智の書、この2つで明確に異なる点として、「得たい情報を得られるかどうか」が挙げられます。
叡智の書では恐らく自分が求めていない知識も含めて得ることができます。
知れば知るほど1つの事象に、いくつもの視点を得られることに繋がるため、諦観の概念に帰結するのでしょう。
もちろんフィクションの話なので、それはそうだろうって感じですが笑

一方でスマホだと得たい情報しか得られません。
何気なく見ているYouTubeのショートもTikTokやTwitterも、閲覧履歴からAIが判別して、見たいものを見せてくれます。

そこには哲学者の言葉も、革命家たちの歴史も、自分が知りたいと思わない限り表示されることはほぼありません。
ほぼ表示されることがないのにもかかわらず、利用者は世界を知った気になってしまうところが恐ろしい部分です。

結局は利用者次第、自分が何を見たいか、聞きたいか、感じたいか、考えたいのか。。。この欲に従って、画面を通さずに世界を知ることが、真に知識を得ると、そう言えるのではないだろうか

そんなことを考えた6月の初旬でした(雑)

いや〜くだらないことばっかり考えてますね
こんなこと考えてるなら、資格取得なんかに励めと言われそうですが、強制される勉強は嫌いなので、もう少し胡座をかいてゲームしてます( ˘ω˘ )
きっと未来は明るいよね!ハム太郎!ヘケッ‼︎

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