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事故から人生を振り返る

ごく当たり前の日常を過ごす中で、いつも通りの中に不穏分子が紛れ込むことがどれくらいの確率なのか。

それとも、それは運命という言葉でまとめてしまっていいのか、今では”運”という言葉でまとめてしまうのが簡単なのかもしれない。

ニュージーランドで運転をしていて、事故にあうのは2回目で、一回目は衝突された車が自分の車に当たったのみで、後ろの車も強くぶつかったわけではなかったので、幸い誰もケガすることなく平穏に修理で終わった。

けれど、今回の事故は”運”よく”生”という分かれ道に入り込めたというくらい危なかった。


仕事の帰り道にパートナーをピックアップして、車を駐車しているバス乗り場で下ろして、「またあとで。」と最後の仕事に向かった。

とりわけ仕事場所が住宅街というのもあって、道路自体は忙しくなく、時間はぎりぎりだけれど、ゆっくり運転して間に合うくらいだった。

運転途中で、前の車が道路の端に駐車しようとするものの、一回で駐車できないから停止して駐車が終わるのを待つことに。


10秒後、突然脳内に建築で使われる長いレンガが思いっきり背中にぶつかるような違和感とイメージが一瞬で流れた。と、同時に車が5~10mくらい吹っ飛ばされたことだけ覚えている。
今だから思うのは、「フラッシュバックが起こらなかった=本能がまだ生きている」と感じたからなのだろう。

一瞬の混乱から、視界に入ったダッシュボードの警告ライトが光っているのを見て、冷静になりあたりを確認して駐車できる場所に何とか移動する。

おそらく、警告ライトがなかったら意識はもうろうとしたままだった気がする。


今回、運転していたのは軽バンだったので、もし前の車にも衝突していたらエアバックが出て大けがか死に繋がっていたと思う。
他のシミュレーションでも吹き飛ばされたときに対向車にぶつかっていたらまず死んでいた。

後から冷静に判断すると寒気しかないし、最後の選択肢の誰にも前からぶつからないという現実を考えても、それは低い確率だったし”奇跡”と”運”を兼ね備えていたというしかない。

あの事故の瞬間の感触は不思議と日に日に薄れていくものの、あの脳内に走った一瞬のイメージはいつまでも脳内にこびりついている。
そして、ふとした瞬間に背中の違和感と気持ち悪い感覚が運転中によみがえる。


結局車は廃車。たった7か月という短い期間での乗車になった。


普段から満足のいく生活ができているというと、そうではないのが事実でありつつも、”生”にしがみつくこともなかった。

けれど、”死”のシミュレーションを振り返ってみて恐怖を感じると同時に、まだ死んでもいいやというくらい最大限に人生を楽しめていないということにも気づいた。

「いつか、いつの日か」という言葉をよく耳にするけれど、それを迎える前に人生が終わる瞬間は今かもしれない。

結局のところ、今を精一杯生きているのが現状で、今死んでも死に切れる人生を歩めていないということ。

幸せではあるものの、「願望」は心の奥底にしまっていて後回しにしてしまっているのは、おそらく90%の人が同じ状態のはず。


人生の中に向き合うことはたくさんあるけれど、

「本当にしたいことは何か」
「いつかがいつかでなくなってしまわないか」
「思い残すことはないか」

をしっかり整理して、今を全力で楽しむことが最大限に人生を楽しむことにする。

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