VR上と物理現実上の人格の違いについてー「分人主義」を用いた考察ー
半月ほど前に「『VR上の自分が小説化される事によって魂が救われた』という出来事について」という記事を書いた。そのまとめとして出した
という疑問について、自分なりに考えた事をこの記事で書いていこうと思う。
結論を先に言うと、(この前ツイートしたように)僕は
「これは物理現実(現実世界)にもある事がVRに持ち出された現象であるので、今後このような事例は増えうる」
と考えている。
なぜそう考えるようになったか、「分人主義」というキーワードを用いつつ説明していこうと思う。
分人主義とは何か
「分人主義」とは、「個人主義」に代わる考え方として小説家の平野啓一郎氏が提唱した概念である。
「分人」は家庭や職場・学校、趣味の場など様々な環境で分化して存在しており、そこでの人間関係の中で変化する性質のものである、とされている。
また、「個性」も「分人」の構成比率によって事後的に決定されるものであり、自分のどこかに単一で不変の「個性」があるわけではない、と説いている。
ここで「分人主義」について
僕やあなたの人格は単一不変のものではなく、色々な環境の元で立ち現れる人格(分人)の集合体に過ぎない
という風にまとめた上で「VR上と物理現実上の人格(分人)との相違点」について考えを進めていきたい。
VR上の分人と物理現実上の分人の相違点とは?
VRと物理現実との「分人を形成する要素」の違い
VR上の分人と物理現実上の分人。この両者について僕は「全く同じ性質のものとは言えない」と考えている。
「バーチャル美少女ねむ」氏は自著「メタバース進化論」の中で
と述べており、VR(ねむ氏の文章における「メタバース」)におけるアイデンティティ(自己同一性)の3つの軸として以下のものを挙げている。
名前
アバター
声
「名前」「アバター(顔や体形などの見た目)」「声」はそれぞれ物理現実では変更困難なものであり、これらを自由に「纏う」事の出来る点においてVR上の分人は物理現実上の分人とは決定的に異なる、と僕も考える。
では、共通点は?
VR上と物理現実上の分人の共通点は?
単一の「自分」は存在しておらず、対人関係や環境ごとに分化した「分人」の複合体が「本当の自分」であるというのが「分人主義」である、という説明を記事の初めに行った。
これについて、平野啓一郎氏は自著内で
と定義しており、この「特定の誰か」について
とも述べている。
つまり「種類を問わない反復的コミュニケーションの中から分人は形成される」という事になる。
前節で述べたとおり、VR上と物理現実上ではコミュニケーションの内容に明確な違いがある。だが、「他者とコミュニケーションを行っている」点においてVRと物理現実の間に違いは無い。
「特定の誰かとの反復的コミュニケーションによって形成されるものであるという点において、VR上の分人と物理現実上の分人は本質的には同じものである」
以上を踏まえて、文頭に挙げた
「『VR上の人格』に自らの心理的問題を落とし込み、(他者に小説化してもらうことで)解消・克服を図る事例」
について考えていきたい。
違う分人の心理的問題を共有する、という行為について
こんな経験をしたことは無いだろうか?(経験がなくてもそういう話を見たり聞いたりしたことがある、という事でも構わないが)
このエピソードを(自分と相手の)立場を逆転させたうえで「分人主義」の考え方に基づいて読み解くと、次のようにまとめられる。
ここからは僕の独自解釈になるが、それぞれの分人は完全に独立しているわけではない。
時間がたち、環境が変われば分人の比率が変わり、その人の「個性」も変わるが、分人そのものが消えてなくなるわけではない。新しい環境の元で新しい分人が(無から「生まれた」わけではなく)分化し、その割合が変動しているだけだ。
それに、各分人によって知識や記憶の表出内容が違う事はあってもこれらが完全に入れ替わっているわけではなく、各分人の間で共有されている。
なので、異なる分人でのエピソードを話して他者に共有してもらおうという行為は「分人主義」の考え方に矛盾しない。……と僕は考えている。
それに、自分の中の問題を「(異なる分人)の話に落とし込むことによる『問題の外在化』」によって解決を図る「ナラティブ・アプローチ」の効果も期待できる。
……いいかげん結論を書こう。僕は先の記事で言及した「フェニルθリジン」の小説化におけるエピソードはこの
「物理現実上の友人の知られざる過去のエピソードを聞かされた時の話」
に相似している、と考えている。たとえ話が(リジンのエピソードに寄せた)具体的なものになったのもそのせいだ。
まとめーそこが何処であれ、「コミュニケーション」している分人が居ることに変わりはないー
違う分人の心理的問題を共有して、問題の解決と精神の平穏を図ることは「分人主義」の考え方に矛盾しない。そして、その分人は物理現実上であるかVR上であるかは問わない。と僕は考える。
物理現実上の分人とVR上の分人とではコミュニケーションの手法や内容に大きな違いはあるものの、「心理的問題の共有」という目的を阻害するものではないからである。
「メタバース」という言葉が知名度を高め、VRの世界に人が増えて「VR上の分人」の絶対数も増えることで、物理世界では以前から見られていた事例である
が見られる機会は今後増えていくだろう、というのが今のところの自分の考えである。
(「他者に小説化」の部分については、そういうことを行える人が今後どれだけ増えるのか、そもそも「心理的問題を小説という形で昇華する(心理学用語としての用法だが、正しいかは自信がない)」事にどれだけ需要があるのか、という別の問題はあるが……)
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