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偏見と世界平和の狭間で…

Prologue プロローグ(序章)

【整数論】せいすうろん

 Q:2の20乗を計算せよ。
 A:2の10乗までを暗記し、それを筆算で計算する。

  2,4,8,16,32,64,128,256,512,1024
  2^1,2^2,2^3,2^4,2^5,2^6,2^7,2^8,2^9,2^10

2^10×2^10=1,024×1,024=1,048,576(ひゃくよんまんはっせんごひゃくななじゅうろく)(これも暗記ではありますが。)

第1章 偏見について考えてみた!

 最初に英語から考えると、「bias」という単語が当てはまりそうです。biasを英英辞典で引くと、意味がよく理解できます。

 しかしながら、ここには英英辞典がないため、『岩波 国語辞典 第八版』の定義を引用します。
   「へんけん【偏見】 偏った見解。中正でない意見。」
 逆に、このニュアンスを英訳によって表現します。(私の完全な主観です。)

   A bias is an opinion which is based on the unfair things, or, on the other hand, the understand based on an unnatural point of view.
 と云う感じのニュアンスになると考えます。

 偏見(bias)については、下記の記事で詳しく考察していますので、ご参照ください。

 主観の反意語は客観ですが、言葉で表現するのは簡単なものの、いざ客観を実践することは、非常に難しく、これが次のような言葉で表されるのだと思います。例えにはなりますが、意識の存在とはどこから始まって、どこで消えるのか?という問題を考えることに酷似しているのではないでしょうか。日本語では、意識の反意語は無意識と一般的には、理解されていると思いますが、私は違うと思っています。私の考える意識の真逆の言葉、それが「死」という言葉で表わされるものではないかと考えています。最近の脳科学では、私の考える死の真逆の意味である「意識」の源のようなもののことを「クオリア」と云うようです。ここまでたどり着くと、もはや「脳死は人の死か?」といった倫理の世界になってしまうように感じます。

 ビジネスの世界では、しばしば用いられる言葉ですが、「相手の立場に立って、物事を考えて、伝えたり行動したりしなさい」という教訓にも近いものがあります。これも主観の反対である客観を実践に置き換えたある種のトレーニングなのだと考えています。

 ビジネスの話題まで範囲が広がったので、これを少し掘り下げてみたいと思います。

 この客観を実践するためのテクニックが次の3つの「視点移動」による実技になります。それが、ポジション・シフトフレーム・シフトタイム・シフトの3つの言葉で表現されるものになります。

 言葉が難しいので順番に例えを挙げます。

 まずポジション・シフトですが、これが先に述べている「相手」の立場に立って物事を考えてみるという意味です。つまり、立場を変えて自問自答するという事を実践しなさい、という教訓のようなものです。

 次にフレーム・シフトについてですが、日本語で説明しますと、枠組を考えて、それを広めたり、縮めたりして考えなさいというコツのようなものです。前述の例と同じように、例えを挙げると、家計という枠組と日本全体の枠組とを発想すると判り易いと思います。家計という単位では節約は美徳ですが、日本全体の単位で考えると、不景気になったり、デフレーションになったりします。デフレーションとは単純にいうなれば、お金がたくさんあるにも係わらず、物(モノ)の値段が、下がり続ける状態のことを指します。正に、今の日本の状況が、ピタリと当てはまります。

 最後にタイム・シフトですが、これは、時間軸を、現在、過去、未来へと移動させて考えなさいという、これもビジネスのコツです。例えるならば、歴史を勉強するのは、過去を暗記するためではなく、未来を予想するためだと云われている言葉の真意を理解するための教え、或いは、ヒントという方が分かり易いかも知れません。

 これらの3つの視点を合わせて体系化したものが、問題解決手法と呼ばれるものになります。勘や感覚の鋭い方なら、既に察しの通りかと思われますが、このテクニック使いこなすことが出来れば、今の世界中で起きている問題のほとんどを解決へと導くことが可能になると云っても、過言ではないと、私は考えています。

第2章 社会システム原論Ⅰが、与えてくれた気づきについて

 経済学部であった私が、非常に面白いと感じたのが、この社会システム原論という講義でした。記述式(但し、持ち込み可)の試験で満点であったこの講義内容を長々と書き続けることも出来ますが、敢えて結論を先に、誤解を恐れずに述べますと、

『全てが、全てに、依存する。』

と云うことになり、これが最大にして、最小の結論になります。

少し、具体的な例を挙げて考察してみたいと思いますが、ここでは、ことわざを用いて例示してみたいと思います。全てが全てに依存するということなので、何かを行えば、予期せざる効果(結果)を生むことになります。これを伝えていることわざが、「風が吹けば桶屋が儲かる」というフレーズになります。このことわざが意味するところは、一見すると予想が着かないものでも、思いもよらなかった結果を生み出すという例え話が、このコトワザの由来です。

 或いは、この様な諺(ことわざ)でも良いかも知れません。むしろ教訓と説いても良いかも知れませんが、「ピンチはチャンス」であったり、「リスクはクスリ」等と表現される事象も、全て内包している結論こそが、「全てが全てに依存する」という言葉が示しているニュアンスになります。

第3章 ビジネスにおける問題解決の重要性とその方法(手段)論について

 これは、有名であると思うので、結論を先に述べます。

 答え:G・PDCAサイクルを回し続けること。

 では、これを順を追って説明したいと思います。

 まずは、G=Goalについてです。これは云わずと知れた「目標」(但し、広く比喩的に)の意です。何事においても、そうですが、目標なき行動は、ただの徒労に終わってしまいます。少し悪い言い方ですが、「貧乏、暇なし」という諺が皮肉を込めて表現しているものになります。

 次に、P=Planですが、これは、「目標」を達成するための「手段」の一つではありますが、日本語で、これを「計画」と云います。

 第3に、D=Doですが、これを判り易く、「行動」と定義します。これも「目標」を達成するための「手段」の一つです。

 第4に、C=Checkです。これは、チェックとも表現できますが、敢えて「目標」を達成するための「確認」と記載します。「行動」の結果確認です。

 最後に、A=Actionです。これが、PlanDoCheckに基づく、「動作」「活動」の意になります。或いは、軌道修正と云った方が、よりよく理解することが出来るかも知れません。

 ビジネスは、主として会社を構成して行われる、お金を儲けるための手段です。ありきたりの表現ですが、これが「ビジネス」の本質であり、正体です。換言すると、お金が儲けられないことビジネスの観点からは、「破綻」していると云わざるを得ません。残酷ですがこれが現実です。

 ここまでは、方法(手段)論の話です。

 それでは、この次に、問題解決の重要性を述べてみたいと思います。お金を儲けることは、手段ではあります。しかしながら、それだけでは、人(会社においては従業員ですが)は動きません。そこで、先述したゴール(Goal)が、各々の従業員に必要になります。各人におけるGoalが、会社全体におけるGoalとベクトルを合わせて、前に進み続けることが肝要だと私は考えています。

人が人に認められることを欲すること、これを「承認欲求」と云うことが出来ますが、これを上手く達成出来るようにする手段こそが、(会社組織における)Goalであり、尚且つ、それそのものが最重要課題になると考えて行動することを心掛けています。

 だからこそ、問題解決が重要になります。少し、フレーム・シフトを応用します。個人(従業員)におけるお金儲けは給与になりますが、会社におけるお金儲けは利潤追求になります。相反する事柄ではありますが、その利害関係が一致する状態を追い求め続けることこそが、企業活動が持続し続ける原動力となります。この「企業活動継続の原則」のことを、「Going Concern」と云います。従業員と雇用主の利害関係が一致し、互いを認め合うことが出来ている状態が理想的ですが、そのためには強いリーダーシップと同時にまた、強いフォロワーシップが必要になります。これを言い表したものが、Win-Win関係と云われるビジネス上の専門用語になります。これは別の名前で言い表すと、Honey Moon Relationship=蜜月関係と呼ばれるものになります。ここまでの議論を踏まえて、次の2つの言葉の意味を考えてみたいと思います。

The price to pay. (支払うべき代償)
There is a will, there is the way. (意志あるところに、道は開かれる)

この2つの格言を基にして、もう一つの言葉を記します。

「人生意気に感ず、功名またたれか論ぜん」(人は人の意気に感じて仕事をするのです。名誉や金銭のためではありません。)

この3つは私の好きな言葉になります。ここまで書き記すと、「人生論」や「人生観」といった、人の一生とは何か?という問いにも似た問題提起にもつながる、一種の価値観の話にも通ずる「一般論」になるような気もします。それが、もしかすると、真理であり、論理的な内容を説くものなのかも知れません。

 ここで更に、言葉のポジション・シフトとタイム・シフトを行ってみましょう。

 1)There is a will, there is the way.
 2)人生意気に感ず、功名またたれか論ぜん。
 3)The price to pay.

 この順序で言葉を並べ直してみると、より良く、私そのものを理解する為の材料にもなり、尚且つ、今の日本における修正資本主義の持つ、イデオロギー(人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。)を理解する為の言葉の寄せ集めであるかのように、主張が見えてきます。

 かつて、日本は戦争によってのみ、大日本帝国を守る手段がない状態に追い込まれたという観点によって、日清戦争、日露戦争の結果を考察したことがあります。大学では戦争論という講義がありました。もし仮に、世界中の人々が平和な生活を送るための理論が存在するならば、時系列が前後するようにも見えますが、先ずその前に、戦争の理(ことわり)を説く必要があると私は考えています。平和を単純に理解することは、簡単ですが、本当に理解する為に、分かる為に、解る為に、判る為に、には、戦争論を順序良く、理解しておく必要があります。史実に則って、事実を書けば、日本は第二次世界大戦で、完封されました。少し、穿った見方をすれば、西洋諸国は、真の意味において、日本という国家を恐れていたのではないか?という仮説に行き着きます。

 念のために申し添えますが、私は戦争論者ではありません。ただ、真の平和を戯言ではなく、正しく理解する為には、真逆ともとれる戦争論を先に考察しておく必要があるという一点のみにおいて、純粋に戦争とは何か?を押さえておく必要があるということが云いたいのです。

 これが、私の平和に対する考察であり、ポジション/フレーム/タイムのシフトを総動員して考えた結論でもあります。

最終章 もう一度バイアスについて考察してみた!

 最後に、話を元に戻してbias(偏見)の考察をしてみたいと思います。この問題を理解する為には、先ず、前提条件でもある主観論と客観論を押さえておく必要があります。人は皆、自分を核にして世界を認知しています。それ故に、その人が認知している世界は主観論によって構成されています。フレームを少し広げて、自分の核の範囲よりも大きな範囲へと視点を移動し、できる限り客観論を自分の世界に取り込みましょう。

自己主張は生きるための必要な手段ではありますが、それそのものを目的にしては、ただの独りよがりであり、傲慢でしかありません。自己主張は必要ではありますが、度を越した主張は、言葉の暴力にしかなり得ません。

 民主主義は数の暴力であるとも云われがちですが、私の観点では、半分本当で、半分嘘であると見ています。日本が議会制民主主義を採用している限りでは、民主であり、必ず民意が反映されていると断言出来るからです。これが、あくまでも私見ですが、GHQが日本と云う国に託した最大のメッセージであり、第三次世界大戦そのものではないかと考えています。

 少数派(マイノリティ)も偏見(bias)なく生活出来る社会を実現し得る可能性があるとして、英文によって書き記された考え抜かれた最高法規、それが日本国憲法の正体であると私は考えています。

 この日本国憲法における最大のテーマが、世界的フレームから観測した国家観とでもいうべきものであり、その「前文」に記されている最初の崇高な理想であると見ています。それは、以下のようなパッセージです。

   We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

(われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。) 

 私の仮説が仮に正しいとすれば、これは社会主義国家でもなく、修正資本主義国家でもなく、第3の道を作らなければならないモノであると説く以外に道はないと思っています。

 それを一言で『ハイブリット主義』と称したいと思います。簡単に言うと国家的に最大限まで、その点(時代における)の社会的弱者を国からの貸付金によって救済し、その人が亡くなった際には、その貸付金を原資として稼いだ全財産を国に返納するという考え方です。

 これを世界的フレームで考えたものがODAです。但し、日本政府が倒れてしまっては、そもそもこの社会貢献活動は、成立しません。この点に於いては、資本主義そのものです。キレイごとは、お金がなければ成立しません。

最後は月並みな表現になります。

 国民ひとりひとりの「夢」を全力で国が支援し、国からの貸付金によって得た稼ぎは誰にも相続せずに、国へ返納するという主張。これをハイブリット主義と呼びたいと私は思います。いかがでしょうか?これが成功するかどうかの鍵は、国民ひとりひとりが、夢を考え抜き、最高のパフォーマンスを発揮したとき、それこそが、時間が解決してくれるであろう、私の(今の)結論です。


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