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組織における「理想のコミュニケーション」について考えてみた!

 今や「コミュニケーション」という言葉が、いたるところで取り沙汰され、横行するようになったという事実は、もはや疑いようがない。中途採用の募集要件にも「コミュニケーション能力」というキーワードが常に付きまとう時代となったようだ。ただ、裏を返せば、それだけ「コミュニケーション」における悩みや問題を、今の日本社会が、数多く抱えているということでもあると、とらえることが出来る。今回は、この「コミュニケーションとは?」という問いに、僕なりに考えを整理してみたい。

上手くいかない理由を周囲に求めだすと、そもそもコミュニケーションは成立しない!

 既に達観されている方なら、「当たり前でしょう」というご意見もいただきそうであるが、コミュニケーションは、キャッチボールのようなものである。まずはしっかりと「相手の放ったボールを受け止めること」が重要になる。その上で、今度は「相手が受け止めやすいボールを返投すること」がさらに重要になる。どんなにしっかりと受け止めたつもりであっても、それが目に見える「行動」に現れてこなければ、相手は自分が投げたボールを見失ってしまう。コミュニケーションが上手くいっていないケースでは、相手や周囲に原因を求めてしまい、結果として自身の行動に「誠意」が現れていない場合が多いようである。

周囲を許すこと、相手を許し、受け入れるところからコミュニケーションは始まる!

 communicate(コミュニケーションすること)という単語は、「to exchange information, news, ideas, etc. with somebody(誰かと情報やニュースやアイディアなどを交換すること)」という意味である。日本語では「対話」という言葉がそれにあたる。その意味で、コミュニケーションは「交換する」という行為であるということが出来る。つまり何が言いたいかといえば、「同士として」意見交換するというのが、そもそもコミュニケーションである。同じ仲間として、対等な立場で意見交換できなければ、それは既に、コミュニケーションではない。また、相手の失敗・失言・故意・過失を許すこと、受け入れることも「同士としての対話」を行う上で、重要な要素になる。僕の目から見て、「人付き合いが上手い」と思える人たちは、これらを「絶妙なバランス」で実践できている。

上司であれ、部下であれ、同僚であれ、コミュニケーションがなければ、組織的関係は成立しない!

 いわゆる「一方通行」は、コミュニケーションとは対称的な概念に相当すると考える。「敢えて」や「逆に」という言葉を多用する人に多い傾向が見受けられる。また、その人が行っている「一方通行」が、その人の中では「コミュニケーション」であると思い込んでいるケースが割と多くある。悲しいことであるが、そいういう人は最終的に「丸裸」になるまでその事実に「気がつく」ことはないのかも知れない。その時、組織としては、「正当なジャッジ」のもと、気付きを与えるために、厳しい判決を下す必要もあろう。その人が「人」として「丸裸になってしまう前」に。

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