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表現のいま

「ゲンロン12」が発売された。
知的関心領域をどこまでも広げてくれる最高の雑誌。
もう12冊目となったのだね。

各出版された本ごとに、自分がその頃何をしていたのか、何を志向していたのかの思い出が刻印されている。

ゲンロンのそれぞれの号をめくるとその時のことを思い出す。曲にはそういう“思い出発掘効果”みたいなものがあるが、本にもあった。それがゲンロン0でもある。

「ゲンロン12」をめくると、やたらと目立つページがある。柳美里さんの「ステイホーム中の家出2」。

2?

1は読んだっけ?「ゲンロン11」を本棚から取り出してページをめくった。

読む限り、記憶にない。

読んでないのか。

では、2を楽しむためにも「ゲンロン11」掲載の1を読もう。ということで、読んだ。

なぜ今ごろ読んだ?

というほど名作。

ステイホームをこういう角度で捉えて表現していることがあまりに新鮮だった。

いや、自分はこういう思想なのだ。

しかし、表現の中でそれに出会いことがあまりに衝撃だった。素朴に「よく去年の段階でこれを書いたなあ」そして、よく掲載したなあと思った。


いや、そもそもコロナ禍を受けての表現って今どうなっているんだ?


東日本大震災のときは、震災を受けて音楽や文学がどうなるかが気になりずいぶん追いかけた。

が、今回は表現にとっては国難であるはずなのに、「いま表現がコロナを受けてどう変化しているのか?」という関心自体を持っていなかった。そして関心を持っていなかったことにすら気づいていなかった。

柳美里さんの表現をやっと読んで、「コロナを受けての表現」に出会えた。

コロナ禍では、どうやってライブを開催するのかとかオペレーションのことにばかり関心が向き、表現の変化そのものにベクトルが向いていないではないか。反省。

ちゃんと表現を追わないとね。

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