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全身ブラックでで固めたコーデを“思考停止系”と呼んでおります

「毎日同じ服はつまらない」といってスーツ着用を義務付けられる職場を避けて就職した知り合いがいた。昔の職場の後輩である。

が、そいつ、俺が見ている限り“毎日同じ服”とさして変わらんくないか? という感じの服装で毎日出勤していた。

俺はあえて指摘するような野暮な真似はしない。そういう本人が言われて恥ずかしがったり困ったりするようなことを俺は言わない。なので結構モテる。

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なんてことは別にない。

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最近は本音、ぶっちゃけ、言っちゃいけないこと言っちゃう、みたいなことが喜ばれる風潮があり、人が言われて若干、漣(さざなみ)が立つ程度に心が動揺するようなことをあえて言い放ち、本人の返しが上手ければそのまま盛り上がってLINEとか交換しちゃってなんなら今度二人でどう? かなんか言ってよろしくヤってしまうのがトーキョーパリピスタイル。

変に遠慮したり、気にしてることを正面から指摘されて言葉に詰まったりしてるようじゃやってけねーぜアーハー? かなんか言われて思慮深い人々、朴訥な人々は家でメンタリストDaigoの「モテる人がすること。しないこと」というタイトルのYouTube動画を見て永遠にこない次のチャンスに向けて爪を研ぐ羽目になる。切ないモブの肖像。なんの話や。

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メンタリストDaigoはいいとして、冒頭に述べた俺の後輩は、毎日同じような服を着ていた上に、新しく買う服も毎回似たようなデザインのものなのだ。

その職場はアパレル関係だったのだが、社員の福利厚生として在庫の洋服を格安で購入することができた。格安のため毎月の購入点数を制限されていたのだが、みんなが点数の枠のせいぜい半分ほどしか消化しない中、そいつは必ずと言っていいほど毎月全枠を消化していた。

にも関わらず、そいつの服装は毎日似通った感じ。

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なぜか。

多分、ヨウジヤマモトというブランドをやっている山本耀司という年寄りのせいであると思われる。主に。

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我々は全身黒で決めたオールブラックをモード系と呼びがちだが

ファッションジャンルというか、ある人のファッション系統を表現する際の呼称として、“モード系”ほど有名なワードもない。
がしかし、ストリート系、ラグジュアリー系、カジュアル系など、ジャンル名は数多あれど、モード系ぐらい定義が曖昧な言葉もないので、この記事限定で俺独自の定義を当てはめてみようと思う。
俺的にはモード系とは、これまで発表してきたコレクションの大半がモノトーン(白か黒)やそれに近い色のアイテムで構成される、ハイブランド。或いはそういったハイブランドの影響や類似点の見られるブランドやアイテムである。

と、こんなザックリした定義では自称モードさんや自称ファッション通を説得できる気はしないが、とりあえずザックリのイメージとしてこの定義に合意してほしい。それが無理ならサヨウナラ。でもこの記事だけの仮の定義なので違う記事では戻ってきてね。
もっと具体的にわかりやすい表現をするならば、全身ブラックのアイテムで作られたコーデはモード系と思ってもらっても良い。

シルエットがどうだ。カッティングがどうだ。関係ない。デザイナーの生き様? ブランド服を着てデザイナーの生き様を自己投影するのか? きも。いや、失礼。
とにかく全身ブラックの服を着ていて、ちょっと洋服に気を使っている感じの人は、おしなべて人からモード系の服装をしていると言われがちだ。

どうだろう? かなり乱暴な定義ではあるが、あながち絶対そんなことはない! という印象でもないのでは?

オールブラックコーデが、一時期コーディネートの王道に

オールブラックコーデ。一定の世代以上には、ちょっと懐かしい響きかもしれない。
俺が学生だった’00年代の終わり頃、エディ・スリマンというエゲツない天才がおったそうな。

エディ・スリマンは、ディオールムッシュという高級メゾンの地位にあぐらをかいていたらいつの間にか顧客に飽きられて新規開拓もしていなかったために死にそうになっているブランドにクリエイティブディレクターとして招聘されるや否や、いきなりディオールオムとブランド名を変更。
古参の役員とか上客にフザケンナヨ! とか言われながら名称の他にも様々な改革を行なった結果、ディオールオムを当時のハイブランドのメンズラインで最高の人気ブランドに仕立て上げた。

爾来、エディ・スリマンはメンズファッション史における最重要人物の一人として語り継がれている。

エディの詳しい実績については他のWeb記事にたくさん書かれているのでここでは触れないが、一時期ディオールオム=メンズファッションの絶対的正解・究極の真理という図式があった。

また、元々クリスチャン・ディオールが本来の意味でのモードを代表するメゾンだったためか、当時のディオールオムっぽい雰囲気のある服や影響を受けたであろう服は、概ねモード系に括られることとなった。

そんなディオールオムを経典とした、「モード系」がメンズコーデの基本として成立することとなった経緯がかつてあった。(※ただ皮肉なことに、クリスチャン・ディオールがモードだっただけで、エディが成し遂げた改革とはモードファッションにストリートのエッセンスを注入したことなのだが)

そしてモード系では、漫画や特撮モノでは往々にして悪を象徴するカラーであるブラックが、正義のカラーとして尊ばれていた。
そのためオールブラックコーデというのは、当時のファッショニスタにとっての一種の正装であり、モード系の王道だった。

今はストリート系がマックスでインフレしきっているため、一部の某SENSE誌以外は、オールブラックコーデという概念自体を取り上げることが少ない。だから今の30歳前の若い世代にはあまりピンとこないかもしれない。
なぜならここ数年のトレンドだったストリートウェアは、ストリートカルチャーというハズしやアレンジの文化を背景に成立しているため、権威の象徴のようなオールブラックというのは実はあまり親和性が高くない。ベースカラーがブラックでも、ロゴやプリントなどをアイキャッチ的につけちゃうのがストリート系の特徴でしょう。

逃げのオールブラックからの、ステータスのオールブラックに

オールブラックが覇権を得て、さらに市民権を獲得してゆくにつれ、一つの間違った認識も拡散していった。

すなわち、オールブラックにしとけば大丈夫だろう。という認識。

そしてなぜか、いつしかオールブラックなら大丈夫の感覚がマウンティングの感情とリンクし、「こんな威圧的なファッションで出歩く俺たち(笑)。怪しいでしょでしょ?」みたいな感じを出し出すから始末が悪い。
そんな格好と意識で集合写真をとってインスタにアップし出したらもうおしまいですね。はい。

なんだろう、怪しい。とか怖い。みたいなことを一つのステータスと感じているのか。
はたまたアーティストみたいな感じを演出しているのか。
じゃあそこのオールブラックのあなた、何かアウトプットを提出していただけますか。

こういう違和感を孕んだ奴の行き着く先が、だいたいヨウジヤマモトなのだ。

俺の見立てでは、オールブラックの楽さに取り込まれ、カラーで違いを出せないからディティールで違いをアピールするためギャルソンやイッセイを着ていたが、いかに変形ディティールといっても次第に飽き、では次は何で違いをアピろうかと考えた時、精神・哲学で違いをアピってこましたろかいというメンタリティになるんではないかと睨んでいる。
なので、自分は特に何か創造しているわけでもないけど人とちょっと違う感じ出してーわ。という人たちが、デザイナーの爺さん自ら、ウチは“生き様見せてんだよ”とか“有り金全部身につけてるのが一番かっこいい”とか、いかにも無頼漢なイメージを演出することでブランディングを行っているヨウジヤマモトにこぞって集まるのだ。

誠にもって虚無的な現象である。
そんな感じなので、いつもオールブラックでオシャレ感を出そうとしている奴を信用してはいけない。

信用していいオールブラックとは、クレジットカードのランクとラグビーのニュージーランド代表だけです。もちろん。

このロクでもなくやはりロクでもない世界の目を瞑ってはいけない部分を目を見開いて見た結果を記してゆきます。