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夢物語

こんばんワーナーブラザーズ。

映画やアニメや小説で、夢のシーンが出てきたらとたんに醒めるきくっちゃんです。
どうにかそこ回避して進めろや。ってキレます。
それ考えるのがあんたらの仕事やろうて。

離れた意味の言葉

僕、中学の頃から違和感というか不思議に思ってることがあって、、、英単語の話なんですけど。

例えば “natural”

自然の、とか、自然な、とか訳します。ナチュラル、ってカタカナでも通じます。
名詞のnature(ネイチャー、自然)でもいいんですが、話がしやすいので形容詞のnaturalについて。

a.天然
英語のnaturalは、山とか川とか雲とか、いわゆる大自然って意味でまず使います。
「自然の」と訳す場合はだいたいこちらのパターンですね。
[natural wood]
自然の木。

b.当然
そして、当然とか当たり前、それが自然じゃん? って意味でも使います。
「自然な」と訳す場合はこちらのパターンかと。
[natural behavior]
自然なふるまい。

いや、どっちも自然。なんも変なとこないやんけ。
って一瞬思うんですが、習った当時からなんか違和感があったんです。
けっこうa.b.両者の意味違うくない? って。
日常で「自然素材100%だよ」って言われた時に “当然使うべき素材” ってイメージは全く浮かばない。逆に「それが自然な流れやん!」って言われた時に “釧路川みたいにね!” 的な風景は1ミリも浮かばない。

なのにどっちも「自然」って訳すのすごない?
離れた意味なのに英語でも日本語でもなんできちんと対応してるん?

まず疑いようのないこと、それは英語の[nature]も日本語の[自然]も、大元の意味は「手付かずのもの」っていうこと。自(おの)ずと然(しか)り。ですね。

僕が不思議だったのは、その「手付かずのもの」というところから出発してぜんぜん違う場所や時間や人種の脳みそを渡り歩いてきた両者が、「天然」の意味と「当然」の意味、どちらの方向にも広がってるって点なのです。違う言語なのに進化の形がそっくり。
It’s 並行進化!

こういう時にありがちながっかりパターンが、実は明治時代、英語を輸入する時に[自然]という訳語が作られた、みたいなやつ。森鴎外とかあいつら。
でも調べてみたら[自然]は平安時代から使われていたそうな。

こういう並行進化系の言葉って世界中にあると思うんですが(当たり前か)、僕が特にきゅんとくるのが[dream][夢]

これ、英語でも日本語でも
a.眠る時に見るアレ
b.将来実現させたいと思っている願い

どちらの意味でも使うのです。
これ、[自然]よりもさらに遠くない?
本来ぜんぜん違う意味やん両者は。

僕の勝手な想像なのですが、どちらの言語でも先にあったのは “眠る時に見るアレ” でしょうね。
その夜に見る夢に意味を見出そうとする試みから、“願い”の方が生まれたんじゃないでしょうか。夜見るアレは願望なのだ!みたいな。
まさに夢のお告げ。

えー突然ですが。
実はぼく、夢の意味を考えるあれこれが大嫌いなんです。
その夢の意味するところは、みたいなやつ。
夢に出て来る牛は財産を表します! みたいなやつ。
血液型性格判断と同じくらい嫌い。
夢くらい好きに見させーや。と本気で思う。
牛は牛じゃい。
フロイトとかさぶい。
飲み会の遊びならいいけど、マジで話すやつまじで怖い。


ただ、
ただ、
“眠る時に見るアレ” を指していた夢という言葉が、“願い” という意味を獲得した過程にはめちゃんこ興味があります。
なんで英語でも日本語でも(たぶん多くの言語でも)そうなったのか。


夢の構造

なぜ夜の夢が願いという意味を持つようになったのか。
ここからは完全にきくっちゃん勝手理論なのですが。
それは
夢が物語の構造を持っていたから
ではないかと思っているのです。

夢って、支離滅裂な面ばっかクローズアップされがちですが、場面とか登場人物が変なことを除けば割とちゃんと「物語」になってません?

もうほんとうにしっちゃかめっちゃか、頭に靴を履いてたり、「めnSßにゅゆp†っθ」とか叫んだり、5000回生き返ったりしませんよね?
支離滅裂といいながら、一瞬一瞬は割とちゃんとしたドラマになってるんですよね。あるいは10分くらいちゃんと話続くときすらありますよね? 支離滅裂なことよりもわりとちゃんとしたお話、なことにびびるきくっちゃんなのです。

いきなりですが、言い切ります。
物語構造を持っているものを人間は信じやすい(物語構造と思考の親和性はあとで書きます)。
しかもそれが人の意思とは関係なく、つまり自然に想像された(ように見える)物語ならなおさら。自然界で創造されて提示された、しかも割とユーザーフレンドリーな物語。これ、昔の人に意味を読み取るなという方が無理があります。さらに自分が主人公のパターン多し、かつ過去の体験とは違うストーリー。そりゃ自然(It’s natural)に、ああ、俺の未来かなこれ? と思うでしょうよそりゃ。
かくして、夜に見る夢が徐々に “願い” の意味を獲得してきたのではないでしょうか。

ちなみに人間は毎日、誰でも必ず3〜5個くらいの夢を見ているそうです。あとはそれを起きた時に覚えているかどうか。そこは個人差あり。
この夢ってのは、どうやら記憶の整理をしている脳の重要なお仕事らしいのです。その記憶の整理の過程でわりと上映しちゃうみたい。
かわいい。
部屋の掃除中に漫画読んじゃったり写真見入っちゃったりするアレ、脳くんは毎晩整理しながら記憶をじっくり見ちゃってるんですね。かわいい。


最小単位

さてここで1つ。大きな疑問が。

もし脳が夜な夜な溜め込んだ記憶を整理するなら、その作業には最小単位があるはずです。
部屋の掃除の時に漫画のページまではバラさないですよね?
写真を登場人物ごとに切り分けないし、椅子を背もたれと座面と脚とに分けないし、USBメモリも分解しない。
整理されるモノには、これ以上は分解しないでね、っていうまとまりがあります。
僕らはその最小単位に沿って物事を整理する。

記憶も同じじゃないかと。
僕らの記憶も、実はある短さの物語としてしか保存されないんじゃないか。
だからそれを整理する夢は必ず物語構造を持ってるのかなあ、って。
僕らの記憶の一個一個はわりと情報がたくさんぶら下がった相当なビット数を持っていて、しかもそれが、どんなに短くても必ず「物語」の構造を持ってるんじゃないか。
ってのが僕の考えなんです。

てことは、夢の「まともなシーンがわりと長め」=北の国から型の人は記憶の物語の単位も大きめ、逆に「シーンが細かいカットでどんどん」=MusicVideo型の人は記憶単位も小さめ、なのではないかという仮説を持っております。

さて、この考えをさらにひとつ進めると、こうも言える気がします。
記憶だけじゃない。
人の感情や思考も物語構造でしかありえないんじゃないか。
入力単体でも出力単体でもイメージ単体でもワード単体でもなく物語。
例えば「臭っっ!」っていう一瞬の反応。これは生物としてやべえ化学物質から逃れる反射行動です。でもその反射の瞬間、もう僕らの脳には「僕はお弁当箱の蓋を開けた瞬間にとてつもない化学攻撃を鼻に受けた」という短い物語が生まれて、そしてその物語が仮想メモリに保管されるのではないでしょうか。
あとは睡眠中に脳が正メモリとして記憶化してゆく。物語の形を保ったまま。
もちろん風化もすれば改変もされてゆくんだけれど、その「臭い」タグのついたデータは、崩れつつも物語の形をずっと保ち続け、また物語単位でしか読み出されないんじゃないでしょうか。


なんで物語を人はつくるのか

ここでやっと本題(長いですかそうですか)。

なんで人はわざわざ物語を作ってはそれを人に伝えようとするのか
あるいは、物語を欲するのか。
僕はこの、記憶・思考・感情が物語の構造を持っているという仮説と大いに関係があるのではないかと睨んでいます。でも睨んでるだけなのですまだ。

映画でも連ドラでもアニメでも小説でも漫画でもコントでも歌でも・・・。この辺までは完全に物語そのものですね。なんでこんなものわざわざ作ってみんなで楽しむのか。
さらには音楽、絵画、彫刻、写真・・・いやある種の料理、製品、道具、サービス、SNSだって魅かれるものは物語構造を持っている。
さらには人との関係や自然との関係だってそうかも。
とかこの辺まで来ると、もうどうとでもこじつけできちゃうので、あー、もうちょい考えてまた出直します。

本日は以上です先生。

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