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亡き祖父にいざなわれ訪れたシンガポール慰霊〜戦後70年慰霊の旅【海外編】

2015年戦後70年慰霊の旅の一環として

知人が、シンガポールに出張に行くという話を聞いたので、この話をしよう
8年前の2015年、個人的に戦後70年慰霊の旅をしているときの話である。

純粋に先の大戦で亡くなられた全ての戦没者の慰霊のため

政治的イデオロギーは関係なく、純粋に全ての人々への慰霊と鎮魂のためである
彼ら先人たちの尊い命の上に、我々の自由と平和と民主主義があるということを情けないことにたまに忘れかける
その怠惰で生ぬるい自分への戒めでもある
そのために8年前の2015年、戦後70年慰霊の旅を個人でしようと決意したのである

3/9,10の東京から

始まりは3月9-10日
70年目の暑い夏の始まりである

国内主要な慰霊に行くことは最初から決めていた

そしてもちろん、
6月23日
8月6日
8月9日

と最低限国内で沖縄広島長崎は巡る予定であった
(宿が取れない!などの大変さはあったがそれはまた別で)

海外慰霊の地選定

そんな中、海外の慰霊も検討していた。

当初は激戦地フィリピン・レイテ島などを想定

当初は、フィリピンレイテ島パラオなどの激戦地を想定し、進めようとしていた

牧野 弘道著「戦跡を歩く」ホーム社

ただ、フィリピンのレイテ島は、ただでさえ観光地ではなく行きづらい上に、ちょうどぞの前に被害の大きかった台風があったばかりであった。
(この台風↓でしょうか)

行くとしても手配旅行になり、そんなにお金もなければ、社会人しながらでそうそう時間もないので、断念したのである。

当時の天皇皇后両陛下(現上皇さま・上皇后さま)も慰霊に訪れたパラオも頭をよぎったが、リゾート地でお金もかかる上に、絶対遊んで終わりそうで慰霊な気分にならなそうなのでこちらも断念

シンガポールに

結局、他にも候補はあったが、お金をかけずに、かつ社会人が仕事の合間の休みに行けるような場所としていろいろ検討した上で、シンガポールを選んだのである。最終的な決定はなんでか覚えはない
大して激戦地でもなかったのであるが…

先の大戦時には一応マレー・シンガポール作戦があった

先の大戦の先の大戦当時、英領マレーの一部であったシンガポール
海軍による対米戦争である真珠湾攻撃
それより1時間ほど早かったとされる陸軍による対英戦争であるマレー上陸作戦
12月8日のマレー上陸〜翌年2月15日シンガポール島陥落 →2ヶ月ちょっと

死者数など、詳細は時間があったらまたあとで載せるが、一旦割愛する。
他の戦地に比べたら少ない

とは言え、インド洋と太平洋を結ぶ東南・東アジア最重要チョークポイントであるマラッカ海峡有するという現在の地政学的にも非常に重要な場所ではあるが
(話が逸れるので置いておく)

そんなこんなで、シンガポール行きを決断し、訪れた

後日談での亡き祖父の話

後日談として、
シンガポールに行くという話を行く前か、行った後に母に話したときである

あとで、亡き祖父が生前シンガポールを訪れていたと知る

亡き祖父は生前、急に一人でシンガポールに行ったという話を聞いたのである。
それも一人で勝手に

家族に相談もせず一人でどこかに行く人ではなかった

祖父は、家族に相談もせずに何かをする人ではなかった
一人で旅行することもなかった
ましてや、勝手に一人で海外に行くことを決めるようなことなんてことはなかった
30年以上前のことなので、海外旅行もそこまで気軽に行ける時代ではない
そんな時代のそんな祖父が、ある時だけ誰にも相談をせずに、農協か何かのツアー(?)に申し込んだようなのである

そして何も告げずに行き
何も語らずに帰り
帰ってからも家族に何も喋らず
その後何も語らないまま、、、

帰国後しばらくして胃痛を訴える

亡き祖父は、その後しばらくして「胃が痛い」と訴えるようになる
検査したところ、胃潰瘍と診断された。

実は胃がんだった→永眠

しばらくしても、一向に良くならず、半年ほどして改めて検査したところ胃がんと診断され、その後長くも経たずにそのまま亡くなったのである
享年63歳である
とうとう何も語らないまま祖父は亡くなっていったのである

虫の知らせ

母は、虫の知らせを聞いたんじゃないか。と言っていた
確かにある程度歳を重ねてみると、そいういうこともあるもんだろうと思えてくる

結局何をしにいったのかわからぬまま

当時の家族にすら何も語らず亡くなっていったのである
亡き祖父があの地に
何を見に
何を思い
何をしに
行ったのか誰にもわからないのである

死んでいった友を弔いにいったのか
殺してしまった敵兵を

偶然を超えて祖父に導かれた感覚

その話を後日聞いた時に、私は驚いた
それとともに、
単なる偶然には思えない
なんとも言えない感情になった
亡き祖父にあの地に誘われた
亡き祖父に導かれあの地を訪れた
という感じた

実際偶然だろうと言っても

戦争の話も一切しなかったという祖父

祖父は体が弱く戦争中病気を繰り返していた

祖父は体が弱く、戦争に駆り出されては、戦地で病気を患っては送り返され
の繰り返しだった
一等兵からやり直しでいい思いは全くしなかったようだ
なので、家族にも一切戦争の話をしなかったという

病人は非国民と言われた時代

それはそうである
病気で病床にいる病人は、役に立たない非国民と言われた時代である。

国家が国民の健康に口出しするのは、優生思想とファシズムそのもの

http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/552-07.pdf

ナチス時代、ドイツは“優生思想”に基づいたさまざまな政策を進めました。そのひとつが第二次世界大戦中の「T4作戦」。障害のある人や病人などを殺害する極秘指令です。

「優生思想と向き合う 戦時ドイツと現代の日本(2) 内なる差別と向き合う」,NHK

人類の歴史≒戦争の歴史

やはり、
人類の歴史=戦争の歴史
と考えると致し方ない

有事になったら、平然と人を殺せる遺伝子が残ってきた訳で、そう言う遺伝子が残っていくのであろう

だからこそ命を紡いでくれた祖父に感謝

祖父のような繊細な男は、本来淘汰されるべき遺伝子であったろう
それを、あの激動の時代を生き抜いて命を紡いでくれたことに本当に感謝でしかない

血は争えない

母は、何十年経った後も「父が・・」「父が・・」(息子や娘にもおじいちゃんがとは言わず父がというのである)というほど、自身の父親のことが好きで、最初にその父親ががんと聞いたとき、ずーっと泣いていたというのである。

母は自身、63歳超えたらいつ死んでもいいと常に言っており(母の母である祖母は62歳で死去)、実際本人自身はこの世の自身の人生に未練や執着はないのであるが、そんな自身も最愛の両親を奪ったがんに侵され、さらにその息子もその後にがんになるとは血は争えないものである(この話はまた別でいつか)


次は戦後75年慰霊の旅と思っていたら・・・

次は戦後75年に、亡き祖父が何をしにあの地に行ったかを感じに再度行こうと思っていたのである

戦後75年目=2020年、COVID-19/新型コロナウィルス感染症発生

中国武漢を皮切りに、ご存じCOVID-19により コロナ禍突入である。

戦後70年慰霊の旅の次は、75年慰霊の旅かと思っていたら、コロナ禍に突入したのである。3年もの歳月は長かった。

過去に戦いを交えた国の人と話せるか?

MRTで回れるような場所、
写真にあるような場所は、華人の慰霊碑や、英国人墓地などが多い
日本人墓地公園などは郊外にある

英国人墓地で、英国人らしき人たちとすれ違う

英国人墓地で、英国人らしき人たちにすれ違った時、
もし
「お前らに我々の爺さんは殺されたんだ!」
と言われたらどうするか?と思った。
幸い、遠くにいて特にそう言うこともなかったが、この場合どうするのが日本人としてベターかとよく考えるが、答えは出ない
「お前らが、攻撃させたんだろ!」と正論言ったところで意味はない
そもそも、どんだけ悪い国があっても、そこの一兵卒には普通に家族がいて、息子が死んだら悲しむお母さんがいるものである(もちろんいない人もいるが)
(例えば、北朝鮮みたいな典型的な独裁国家があったとしても、そこの末端の兵士のような一般的最下層の国民こそが最も被害者でもある。)
こういった場合、どう切り返すのがベターであろうか?
よく悩む
WGIPによる、「日本が悪いことをした、戦勝国は良いことをした」と言う洗脳にはもう懲り懲りであるが、ただ単に末端の国民、心ある一人の人同士として対峙した場合はどう対応するのが紳士的かをよく考えるが、残念なバカだから答えが出ないのである。(バカと言ったら自分がバカであるが、自分のことをバカと言ったから、まぁ自分がバカである)

アフターコロナ

知人がシンガポールに出張に行くと聞いたとき、アフターコロナを改めて実感ととともに、改めて胸にその想いを馳せた

次は戦後80年か

次行くのは戦後80年か
今年も既に秋となり虫の音が聞こえる時季である

できれば虫の知らせを聞く前に行っておきたい

マーライオン


余談:真珠湾より早いマレー上陸?その"早い"とは?

真珠湾攻撃より、日本時間で1時間ほど早かったとよく言われる。
大体、「日本時間に直して〜」とかで表現される
その時間差、1時間に意味はあるのであるか?という話である

深夜のコタバル上陸は真珠湾奇襲の1時間前だった

真珠湾奇襲に先立つ1時間50分前(日本時間12月8日午前1時30分)、イギリスの植民地マレー半島東岸コタバルで、日本軍とイギリス軍の戦闘が始まった。

太平洋戦争研究会編著, 「マレーシンガポール作戦1真珠湾より早かったマレー上陸作戦」
『学校で教えない教科書
面白いほどよくわかる太平洋戦争―日本の運命を決めた「真珠湾」からの激闘のすべて』
日本文芸社,2000, P52

離れた場所での同時、同時刻とは? 〜ありもしない同時という概念

現代人は、インターネットによって1秒も経たない時間で、地球の裏側の人の情報が知れる時代である。だから、まるで遠くに離れた地にいる人と同じ時刻、同じ時間の流れを共有していると勘違いしてしまうものである。

ニュートンが仮定した絶対時間→アインシュタインが完全に否定

ニュートンが力学を扱う上で、非常に扱いやすくするために、時間と空間を絶対的なものとした。そして、時間は常に同じ速度で流れている不変なるものとした。
そして今から120年ほど前に、特殊相対論でアインシュタインは時間は相対的なものでしかないとした。これが現在物理学の基本概念の一つである。

なぜか、現代人はもう何百年か前のニュートンの絶対時間の概念に洗脳されている

本来絶対的な時間なんてないのに、なんで絶対的な時間があると現代の人類は思っているのであろうか


当時の最速の通信手段はなんであったろう?

無線:そんなのは一部だろう
(日本の暗号は筒抜けだったが、話が違う)

庶民にとって手紙が最速の情報伝達手段だった頃の時間とは?同時とは?

電話ももう一部にあったようだが、一般的ではなかったろう。ましてや国際電話なんて
そんな時代の最速の情報伝達手段は、普通は手紙だろう
(ごく限定された状況だけで伝書鳩があるだろうが)

そんな時代、
手紙が遠く異国の地に着くまで1週間、もしくはそれ以上かかるかもしれない
送って、読む時間を作って、読んで、書いて、送る手配?をとって、送って、受け取る
という往復に1ヶ月かかったとしよう
この二人における同時とは何か?
この二人における時間の流れは同じか?

終末思想に基づく西洋の不可逆的絶対的時間の流れと日本の時

終末思想に基づき、過去からこの世の最後まで一直線に伸びる不可逆的な時間の西洋
インドを中心としたアジアは輪廻転生が昔からあり、円の時間軸もある

さらに、昔の日本人は時の流れの、未来→過去だったという話もある

この辺の話は余談になるのでまた別途

参考までに

比較的最近売れた一般向け物理の本では、この辺をご参照
時間があれば引用しておく


あと、


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