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【千年とハッ】稽古場レポート①平岡直子(歌人)

吉祥寺シアターけいこ場で集中制作中の『千年とハッ』。上演に向けた作品の「言葉」について、何人かの作家の方に稽古場を見学してもらい、レポートを書いていただきました。初回は歌人の平岡直子さんです。

 11/10(木)。吉祥寺シアターの稽古場で「千年とハッ」の制作過程を眺めながら、きのうたまたま試写会でみた映画「にわのすなば」のことをくり返し思い出していた。この映画は二人の人間が架空の街を歩きつづける話で、二人の人間の認識や記憶のずれのなかにたちあがる幻のようなものをみせてくれた。きょう、「千年とハッ」のほうはどうやら本物の吉祥寺の街を歩くことによってつくられた作品のようだ。映画とちがって映像として街をみせたりはしない。だけど、作品のなかに要素として入っているだけでなく、吉祥寺とはまさにこの劇場の外に広がっている街だ。つまり、作品が街に対して地続きでもあり、入れ子でもあるという奇妙な構造によって、みているわたしの脳にほとんど映像的に浸食してくる。

 わたし自身にとっても吉祥地はもともと親しい街で、今日も、吉祥寺駅から、五分ほど、とくに迷うことなく歩いてこの吉祥寺シアターに来た。線路沿いの薄暗い道を歩いた記憶の延長線上にそのまま作品が乗っていく。

 以前みた涌田悠の「川風の星」という作品が、横浜(これもまた、作品が上演された劇場を擁する街である)を執拗に歩き、地名を身体の動きのなかにばらばらにほどいていくようなパフォーマンスだと思ったことをおぼえている。いつも街を歩くところから作品をつくりはじめるのですか、と聞いたところ、前作にあたる「川風の星」からだ、という返事がかえってきた。身体の外側、世界に触れてつくることに今は関心があるのだという。その関心は、今回、共同制作の相手としてボーカリストの田上碧とタッグを組んだことと関係しているのだとも。

 参考資料として不思議な台本を渡してもらった。みじかい文や断章が横書きでつらなる紙だ。スマホのメモ帳をスクロールするような感覚でみていくと、散文詩のような、歌詞のような、うわごとのような、ところどころ意味をなさないものの、全体では具体的な風景をたちあがらせるテキストであることがわかる。これは、田上碧による「見て呼ぶ」の成果だという。「見て呼ぶ」とは、田上の独自の方法で、iPhoneのレコーダーをオンにして、即興や言葉やメロディをつくっていく作業のことである。吉祥寺のさまざまな場所で、二人で「見て呼ぶ」をおこなった結果、井の頭公園で収録された「見て呼ぶ」がこの作品の軸になったそう。

 わたしに作品の成り立ちを説明していた二人が、わたしという部外者を含んだ会話からシームレスに作品についてのディスカッションに入っていき、いつのまにか稽古場での「見て呼ぶ」がはじまっていた。即興で声を出しながら、稽古場のなかを描写する。天井をみて、床をみて、ペンをみて、パイプをみて、埃をみて、それらを節をつけながら実況する田上と、その声に合わせて大きく身体を動かしていく涌田。それぞれが勝手に声を出しつつ、ときおりこだまのように声を重ねる場面や、また、会話のように応答する場面もみられる。即興の「見て呼ぶ」は、やがてなだらかに台本を練習するパートに入っていった。そっと後ろに下がって椅子に着席しながら、わたしは、自分を異物のように感じないことにおどろいていた。作品が練り上げられる現場に部外者として立ち会うというのは、もうすこし疎外感を伴うものなのなのではないかと想像していた。実際には、わたしがそこに座っていることはごく自然だった。作品に参加している、という感覚ともまた違うのだけど、たとえばわたしが身じろぎをすることや、わたしがメモをとるペンの動きがこの空間に書き加わることは、この作品の一部なのだと思えたのだった。街のなかに、あるいは部屋のなかにただいるだけで、人間には雑音が出たり入ったりする。田上の声にも涌田の動きにもそういった雑音に対するノイズキャンセリングがかかっておらず、むしろ雑音の総体のようなものが折り込まれていた。「観客」というのが原則的に雑音を立てない漂白された存在だとしたら、ここで、わたしは「観客」であることを求められていない、と感じたのだと思う

 その場のわたしにもみえているものが実況されていた即興の「見て呼ぶ」に対し、台本化されたテキストを読むくだりでは、わたしにはみえないもののことが語られる。坂、水面、街灯、ここではない公園の様子が描写されるけれど、あまり段差は感じず、わたしも彼女たちの景色のなかを歩きはじめる。彼女たちの記憶のなかの景色というよりは、彼女たちの「声」や「動き」が記憶する景色のなかを。「見て呼ぶ」には、俯瞰的にではなく、ある一点から実際にみえたものを実況することを徹底しているがゆえのリアリティがあり、一人称性の強みを感じさせられる。即興という方法は、話者が先入観によって情報を補正することを防ぐのだとも思う。たとえば公園なら、いかにも「公園らしい」要素を取捨選択しようという無意識の働きに先んじて声を出すこと。

 さて、この「見て呼ぶ」が横糸だとしたら、作品の縦糸の役割を果たすのがもうひとつのテキスト、涌田悠による短歌作品である。渡された台本でも、「見て呼ぶ」は横書き、短歌は縦書きで表記されていた。二つのテキストは、二人が共有した公園での時間をもとに書かれたものらしく、モチーフはところどころ重なっているけれど、書かれ方はまったくちがう。場のリアルさをなによりも含んだ「見て呼ぶ」に対して、短歌作品のほうは事後的に再構築された結晶的な言葉だ。抽象的な表現もあり、身体の奥のほうから言葉を捻出している印象がつよい。パフォーマンスのなかではこれらの短歌はかなり崩した読みかたで朗読されており、いわば、短歌であることを半ばほどかれているのだけれど、それでも、なぜか言葉の硬度が感じられる。川のなかで水の流れを変える石のように、あるいは測量基準点のように作品に突き刺さる。涌田のダンスは、足で(ときには手も足のようにして)地面を踏む動きが印象的だったのだけど、短歌をつくることが言葉を定型に定着させる作業だとしたら、ここにはなにか共通する運動性があるようにも思う。

 いつのまにか稽古は一区切りしていて、二人は頭を寄せあって修正点の話し合いをはじめていた。ここで移動したいから、ここを長めにとってほしい、など、具体的なフローが組み立てられている。「ここ、言葉が先行しちゃっているかな」「わたしは言葉に先行してもらって進めている感じ」と、ある部分についてまったく真逆の見解を示す会話が耳に残った。きっと真逆のまま進めるのだろうと思った。完成した作品を劇場の客席からみても、わたしはおそらく自分を異物だと思わないのだろう、という予感がしている。

平岡直子(ひらおか・なおこ)
歌人。1984年生まれ。2012年に連作「光と、ひかりの届く先」で第23回歌壇賞を受賞。2021年に歌集『みじかい髪も長い髪も炎』を上梓。同歌集で第66回現代歌人協会賞を受賞。その他の著書に川柳句集『Ladies and』。

上演は12/8・11の二日間。
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