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【千年とハッ】終演レポート・涌田悠

サルスベリ 右半身の端に落ちる千年前の音の残像

「-あの夏の終わりの夜と朝の隙間に横たわる布団の中で、サルスベリ、サルスベリ、サルスベリ、と、言葉、を音に、声に変えているこのからだが千年経って、たぶんこのからだはこの世界からは見えなくなって、このからだから百日紅、さるすべり、サルスベリ、という言葉が消えてなくなるときが来ても、その白いモコモコとした花のかたまりが枝先に揺れている、のが映るあの高架下に垂直に立つ透明な右半身のうんと端っこに、今日のあなたの歌声の一粒がわたしのからだの肌の一粒に落ちた時の、あの鮮やかな接触面で生まれた色、のような熱、のようなひかり、のようなものが生まれたときに生まれた仄かな音の残像、のようなものだけがただそこにある、ような予感がした-」

涌田悠・「千年とハッ」往復書簡より

八月の終わりのある日、創作初日の稽古場で、ヴォーカリストの碧さん(田上碧)の歌声にからだが触れた瞬間の“ハッ”と目の覚めるような鮮やかさと鋭さが、『千年とハッ』の始まりだった。
異なる表現手法を通して探求してきたそれぞれの〈言葉〉を、からだと声を介して交歓させながら積み重ねた約三ヵ月に渡るリサーチ・創作・上演のプロセスの一端に触れてみようと思う。

二人の創作はまず、オンラインでの往復書簡から始まった。短歌、テキスト、ラップ、歌詞、朗読や歌の録音など作品のモチーフとなったものから、その日見た月蝕やいつか見た海からの景色、好きな映画や本のことなど取り留めのないものまで、文字や音による言葉からイメージを自由に遊ばせながらゆっくりと互いの距離を変容させてゆくように、様々なかたちの〈言葉〉による交歓を積み重ねた。
タイトルとなった“千年”という言葉への想像力はこの往復書簡で生まれた先述の短歌とテキストの身体感覚に由来する。

往復書簡の開始から程なくして、稽古場での実践によるリサーチが始まった。
異なる表現手法と〈言葉〉を持つ二人の出会いから生まれた“千年”という果てしない時間や距離への予感にからだや声を飛ばそうと試みた私たちは、まず自らの肉体で世界に触れるべく、吉祥寺の街を歩くことにした。
街歩きリサーチの中でまず実践したのが、〈見て呼ぶ〉という碧さん独自の手法(街を歩きながら風景の中に見えたものや聞こえた音を、ときに詩の朗読や歌のような節回しを付けながら即興的に声に出して“呼び”、描写してゆくというもの。スマホなどで音声を録音しながら行う)である。サンロード商店街、ドン・キホーテ吉祥寺駅前店、水門通りや宮本小路などの住宅地、井の頭公園など、二人一緒に、または一人で、様々な風景での〈見て呼ぶ〉を実践した。
声で風景を描写する〈見て呼ぶ〉の実践の中で、私は自然と声だけでなく声を含むからだ全体で世界に触れ、世界を呼んでいることに気が付いた。街を歩いていると、目や耳に触れるものだけでなく、鼻孔から肺を膨らますコインランドリーの温風や誰かの家の煮魚の匂い、皮膚を撫でる夜風や雨粒の温度、足裏をくすぐる砂利道や落ち葉の触感など、からだのあらゆる感覚が世界の発するものに触れ続けている。それらを声で、あるいはからだの動きで“呼ぶ”という行為は、世界と終わらないおしゃべりをしているような感覚をもたらした。(私は〈見て呼ぶ〉を〈触れて呼ぶ〉と解釈した)〈触れて呼ぶ〉を繰り返しながら、私は私にとっての〈言葉〉とは一体なんだろうと考え続けていた。からだと世界とのおしゃべりの中には、声として発せられ、音や意味が残る有形の〈言葉〉と、声にはならずにからだの動き(ただ静止することも含む)により発せられ、音や意味は残らない無形の〈言葉〉がときに複雑に絡まり合い、常に揺れ動いているように感じられた。それらの〝あわい〟の往来の中で、短歌とダンスは分かちがたく互いに作用し合いながら、からだと世界の接触面を介した様々な質感を持つ〈言葉〉として生まれ続ける。
一方、碧さんに〈見て呼ぶ〉を行っているときの身体感覚を尋ねると、「私は喉が先行して動き、呼んでいるような感じ」と返ってきた。声を主体に世界に触れる彼女の〈言葉〉は、世界の発する質感の機微を多彩な息遣いや声色に乗せて解き放つ。それらはまるで手のひらで触れられる体温を持った生き物のように蠢き、目の前の世界を鮮やかに味わうことの震えや熱をこちらのからだに立ち上げる。

ヒトトトリトヒカリのあわいを往き来して 声はあなたのうつわのかたち

共に街を歩く中で、それぞれの持つ身体感覚の速度の違いを発見したのも面白かった。比較すると基本的に碧さんは速く、私は遅い。実際の歩くスピードもそうであるし、またどこかで立ち止まった時に再び歩き出すまでの時間も彼女の方が短く私は長いことが多かった。
個人的な身体感覚の特性というだけではなく、常に時間の流れと共に前へと進み続ける中で生まれる音楽に対して、ある一点の時空間に深く潜り凝縮させるように生まれる短歌や、一瞬の身体感覚に永遠を見出そうとするダンスというそれぞれの表現手法の質の違いも関係しているのではという考察が生まれたのも興味深かった。
この〈見て呼ぶ〉と〈触れて呼ぶ〉のプロセスそのもの及び、そこから生まれた音源の書き起こしテキストと短歌が、本作の軸となるシーンの重要なモチーフとなった。

写真:涌田悠
写真:涌田悠

ないことのあること 秋のあじさいの遅れて届く声の手触り
背の低いベンチのやがて一本の樹だった頃に聞いていた音
ぬかるめば足の裏からうらがえる 光の上をあなたが通る
雨、落ちてくる透明なスピードが雨、落ちてくる雨はスピード、

目の前の風景を時間の流れと共に即興的に描写する碧さんのテキストの〈言葉〉と、風景のある瞬間の身体感覚に潜り定型に結晶化させる私の短歌の〈言葉〉は同じ時空間の風景から生まれながらも全く異なる質、速度、方向性を持っていた。
稽古場レポートを執筆した歌人の平岡直子さんは、作品における短歌の役割や特性を以下のように表した。「―パフォーマンスのなかではこれらの短歌はかなり崩した読みかたで朗読されており、いわば、短歌であることを半ばほどかれているのだけれど、それでも、なぜか言葉の硬度が感じられる。川のなかで水の流れを変える石のように、あるいは測量基準点のように作品に突き刺さる」(『千年とハッ』稽古場レポート/平岡直子より) 
生身のからだと声の交歓を通して、それら言葉の多重の質の違いを有機的に作用させ、舞台空間に新たな風景を立ち上げてゆく作業には、〈言葉〉の内包する果てしない謎や驚き、そしてよろこびが溢れていた。

雨に 濡れれば みんな似ていく
土に似ていく
葉っぱも枝も 石もベンチも
葉っぱも枝も 自転車も空も
葉っぱも枝も 切った木も君も
葉っぱも枝も あたたかなあなたも

田上碧・『千年とハッ』使用楽曲「土に似ていく」より抜粋

これらのプロセスから生まれた「土に似ていく」という歌と共に踊りながら私は、歌声に乗った言葉、肉体から放たれる言葉、空間が発する言葉、目の前にいるあなたのからだに潜む言葉、まだどこにも生まれていない言葉、ばらばらの質を持った無数の言葉たちが混淆し、〈言葉〉そのものが踊っているような、あるいは踊っている肉体の一粒一粒に〈言葉〉が生まれ続けているような、終わらない〈言葉〉の循環の中にいる混乱に似たよろこびを覚えていた。
このシーンの創作が行われていた稽古に立ち会った作家・文筆家の河野咲子さんは、この歌と踊りの様相を「―歌う身体・踊る身体の存在そのものがシニフィエとなる-」(『千年とハッ』稽古場レポート/河野咲子より)と表現した。

作品のラストシーンでは、ドン・キホーテ吉祥寺駅前店入口の水槽に泳ぐ一匹の魚から着想を得た私の短歌とテキスト、そしてそれらを感受して創られた碧さんの「パラオの風」という歌と共に薄暗い明かりの中で踊り続けた。

彼方から見ればひかりであるだろう器の内を爆ぜる星の音
都市を泳ぐ魚の声の透明な震え  銀河を突き抜けてゆく

涌田悠

晴れた夜空に突き刺す
星の光の色は
いつか見た、あの魚の眼(まなこ)に似た
透明な銀色の走る光だ

田上碧「パラオの風」より抜粋

私はほとんど影と光しか見えないがらんとした空間に身を置き、自分のからだの内側と、影の向こうに息づく生命の音に耳を澄ました。そしてここから一番遠いところ、舞台の高い天井、その先にある吉祥寺の空、そのはるか先にあるだろう宇宙、そのさらに先にあるかもしれない未知なる風景の〈言葉〉へ、永遠に届かないはずのからだを伸ばし続けようと試みていた。

ダンス、短歌、歌、詩、世界を呼ぶためのあらゆる〈言葉〉を通して、生まれ続ける未知へと命ある限りからだを伸ばし続けることができる果てしなさへの畏怖とあたたかなよろこびのようなものが、今もからだの芯に残っている。

上演映像はこちらから。


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