歩きなおす花 たお はるき
「やっと、あの花を受けとめられる 気がしてきました。」
そうしたためるまでに、十年近い時がうずくまってきた。
その日。
少女は、贈られた花を、渡された手のまま窓に向かって投げ捨てた。失明を宣告された午後の病室に香りだけ残し、花は萎れた。
片方の眼は、色や影を感じる力をまだ保っている。それが、一つのよりどころとなったのはまちがいない。思春期のいのちは生きた。だが、しのびよる惧れ。枯れそうになる心との争闘。
「障害の受容」というリハビリのことばがあるから受容ができるというような単純なことではむろんない。そんなはずはない。
けれど、認識し、承知し、引受けないかぎり、足は前にでない。深意の曲折は、ひととおりでないし、他者である私に「まるごと理解できる」ものではない。
せめて、ともに惑おう。
娘に出会った私は、その耳に、あえて古典・平安の色を語り、百花の美を描いたエッセイを読み聞かせた。「音楽の道を選んだ君は、この色この花を、音でどう表現するのだろう。」
よく言えば、挑戦。
「親ならば、友ならば、傷を摺るようなこうした問いをぶつけるだろうか」という矢を自分にも向けながら、惑いあう何人三脚かの一脚でありたいと。だが、・・・。
そして、一年が経ち、君は、贈られた花束をさかのぼって授かりたいと告げる。
これまで生きてきたよりはるかに長いこれからの時を引受ける覚悟が整ったというのだ。
花が歩きはじめる瞬間を見た。
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