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おわりかたを考える

2023年の3月に書いていたもの。
非公開のままになっていたのを見つけたから公開に。

父と私の振り返りを初めたのも、1年前に書いていることと同じような気持ちで始めたんだけど、その「はじまり」が残してあったんだなーと。

「写真と子供」「写真とわたし」「写真と日常」っていうくだりがあるけど(こんなの書いてたのわすれてた)、1年後はその整理が終わって「父と私」を写真を通じて残そうとしている。写真と私の関係性がちゃんと再構築されてるんだなと嬉しくなった。


以下2023/03にかいていたもの。

私はいま、転換期なのかもしれないなとふと思った。ふと思ったというよりなんか知ってた気もするけど。長く付き合いのある友人と旅に出たり、先日の「project NO24」も。

https://note.com/kiccamomo/n/n9affc030635a

新しいことをはじめる。というよりも私にとっては「マイルストーン」という一旦これまでを形にします。という意味合いの方が強い。大学生の娘も今年就職する。主に金銭的に自立をする訳だけど、私の「育児」も一旦終わる。厳密には母と娘には変わりはないけど金銭的な部分を担うという役割は終わってしまう。繋がり方のひとつが変化する。という事でもあるけど。
まだ、あとひとり大学生の息子が居るからあれだけど、たぶん数年の内に息子へのその役割も終わるだろう。

去年の夏頃にとある集いで改めて自分の事を振り返ったことがあった。いまあるこの感覚の正体はなんなんだろうかと感じていたけれど、その時は「とりあえずやり切ってみなければ解らない」という結論になって、そのほかの「先のこと」は考えない。と決めた。今思えばアイデンティティや日常が「完全に変わってしまうこと」への不安と、なにか変えなければと思っているのに、自分がどうしたいのかという尻尾が掴めずにもやもやとしていたんだなと思う。変えなければとおもいつつ今の状態から離れなれないなにか理由があるような。

19歳でカメラと出会って23歳で出産したわたしは、「写真と家族」「写真と日常」「写真と子ども達」が密接に繋がっていて、子ども達が家を出たあとに「写真とわたし」の関係性を改めて考えさせられた。何を撮っていいのかわからない時期があったんだ思う。わからないと言うか変わらずに夫やきなこ(我が家のわんこ)やあれこれ撮っていたけど、子供達がいないと言う現実は撮れば撮るほど色濃くなるわけで今、何気なく写真を振り返ってみてわたしはまだ寂しかったんだなと。もう随分整理されたと思ってたけど、自分で思っていたよりも簡単じゃなかったらしい。
昔から時々こういうところがある。自分の感情があまり分からなくて、いつも後からわかる。たぶん「寂しい」に気が付きにくい。そして気が付かず残っているうちは「見つけて欲しい」とでもいうように、なにか小さな違和感が残る。

その輪郭があるときはっと掴める時があって、そのたびに「自覚する」とか「気がつく」とか。本当に大事だなといつも思う。そうして気がつくたびに少しずつ溶けていくような気がする。溶けるというか「あっても良い」と思えるというか。

娘の卒業式を撮り終わったらなにか変わるような気がするから、今年と来年は展開したい仕事のことは置いといて、家族旅行や卒業式みたいな家族のあれこれをちゃんと楽しもう。そしていっぱい撮ろう。と、まだ自分の感情をよく理解してないなりに去年の夏に決めた事は、とても大事だったんだなと改めて思った夜更け。

色々なことの終わり方を考えてる。頭より先にたぶん勝手に体というか行動がそうしてる。いつも後からわかる。終わり方って書くと暗い感じになるけど、わたし的にはどちらかというとかなり明るいというか前向きなこと。様々な「節目」みたいな。ちゃんと終われたら、きっとこれから色んなことが変わっていく気がする。「変化が怖い」という気持ちが整理されると、未知が「楽しい」に変わる事はこれまでの人生で学んだこと。
アルバムを整理して棚に並べて「よし」ってなるのとちょっと似てる。

カメラと家族が密接に繋がっていると思っていたけど、実は自分の内面とも繋がっていて、わたしがわたしを感じとる事が出来ないときもカメラはリアルにそれをそのまま記録して写し続ける。わたしの視点で。
良いも悪いも差別なく。私に寄り添ったり共感したり忖度せずリアルにカメラはカメラであり続ける。ありがとうという気持ちと、その「わたしはカメラである」という在り方が美しいなとあらためて。







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