言葉を交わせたなら

ご飯を食べなくなってひと月半が経った、2019年11月の半ばのことだ。
体重もすっかり軽くなって、抱っこすればゴツゴツとした骨の感触が目立つようになった時分、ももはお風呂場に足繁く通うようになっていた。
これは猫の死の間際によく見られる行動らしく、体温が平素より低くなると今までは平気だった温度でも暑さを感じるため、ひんやりした場所を求めるそうだ。
そうした行動を見るにつけ、僕もいよいよかと覚悟を決めなければならなかった。

そんな行動をももが見せるようになって数日後の11月17日夕方、ももが嘔吐するような仕草を見せた後に力なく倒れ込んだ。
そこまで苦しそうにするももを見たのは初めてだった。
僕はひどく動揺した。
このままではももはきっと死んでしまう。だけど、それはそう遠くないうちにやってきて、その日まで少しでもももが心安らかに過ごせるようにすると決めていた、僕の飼い主としての最後の仕事が終わることでもある。
どうするべきなのか逡巡して、僕は結局ももを連れて動物病院に向かった。
今でも「ただ、ももの苦しみを長引かせてしまっただけなんじゃないか」と、僕のあの行動は覚悟が足らなかったがために執ってしまったエゴの表れだったんじゃないかと思う。
結果としてこの時は生き永らえたものの、ちょうど1ヶ月後にももは逝ってしまった。

いくら覚悟を決めても、やはり「失う」ということは凄まじい破壊力を持っているなと思うが、ももを失うという現実は強烈に日常を破壊しつくしていくだろうことに無自覚に触れたのが、11月17日のできごとだった。
この時ほどももと言葉を交わせたならと思ったことはない。
悲しいことに変わりはないが、ももの意に沿うような最期を迎えさせてあげられなかったかもしれないということは、この先どれくらい時間を経てもなくならない懸念のような気がしている。

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