ミラーボールの神さま
神というものは信じていない。
そんな私は音楽を信じるようになった。きっかけは至って簡単で、心理的に自分を追い込み生きる屍にしてしまった局員業をようやく決心して辞めたはいいが、さあこれから何をどうしようかと途方に暮れていた。家でウダウダしていたそんな時、それまでは仕事をする傍らたまに気になるイベントの夜に出かけても早番パートタイムでのみ参加となってしまっていた『(ダンスメインの)パーティー』という音楽を聴く踊り場へ、遅番のみならずサービス残業からのフルタイム復帰し、時間無制限な復活を遂げた。その間5年、ミラーボールの神様はずっと私を見守ってくれていた。
その前の5年間を振り返ると、闇に病んだ魂を失った生き甲斐のない心寂しい郵便配達員だったと自ら言わないと周りの誰にも想像がつかない程、精気を取り戻しきってしまった。『(ヒデさんありがとう)人間発電所』のエネルギーに満ち溢れている現在に至るまで、とにかく嫌で仕方なくなった職場を離れることで、50パーセントの痛みからは解放されたのだが、残りの半分は音楽の治癒力のおかげであると、これまでに信じて疑ったことがない。だから私の場合は一種、セラピーの一環やヒーリング効果として踊り続けているのかもしれない。
踊り先は、主に『クラブ』と呼ばれるナイトクラブをはじめとするバーやコンサート会場や野外フェスで、日替わりや時間割りでDJ達が選曲すると同時に、照明担当者がビートやリズムに合わせ光の動き具合を操作する中で、音の魔法に包み込まれ始めればダンスフロアで踊っている心とカラダ、この世に居るのか、あの世に居るのか分からないトランス状態に陥る。やがて夜明け近くに訪れる神聖な空気を味わう運びとなるあの瞬間や時間帯。これがまた快感(エクスタシー)なのだ。
高揚感と共に見上げれば、その空間中央の天井から吊るされているのが、神を祀る社の入口付近に建てられているのが鳥居ならば、私の音楽への信仰心を象徴している門(ゲート)こそがミラーボール(通称:ミラボーさま)である。通常厚さ3ミリ程度の四角い鏡状のタイルが施されていて、その鏡で表面が埋め尽くされた球体から成る。そのの一欠片が無数の瞳孔で、何兆万個もの踊る生命体を映し出し、パラダイスへと導くよう今日も光り輝く。必要不可欠なパーティー小道具のその存在はとても大きい。
音楽で踊ることを主にパーティー修行と肝に命じて継続してきたなかで、様々な輝きを見つめた積み重ねが自分への一番の肥やしとなった。ビーチパーティーを仕掛ける『Wideloop 』へはマイ自転車を船に積み、浜にテントを張って参加した答志島。野外に飾られていたミラボーさまは、台風9号で乱暴に振り回され激しい雷光線の反射となって現れた。三重県市民文化会館で行われたユーミンのステージの頭上から、コンサート最終に降りてきたカスタムのミラボーさま、曲に合わせた軽快な速度で縦にスピンしながら勢い付いたきらめく大しぶきを客席へと放っていた。
かと思えば、世界遺産に登録されたことを改めて納得せざるを得ない富士山を小学校の修学旅行以来拝むチャンスに恵まれたのも、入場前にある意味既に満足させられた感満点だった『FUJI & SUN』のフェスであり、開催中の混雑を避ける裏道の木から白昼にぶら提げられたミラボーさま、「パーティー会場であること」のリマインダーの役目を果たしていて、夜の照明に照らし出された時よりも良かった。
境内を守るエンマさまのようなコワモテ感が和洋折衷的で、今風に言い換えれば、ジェンダーレスでエイジレスのままボーダレスに時空を飛び交うミラボーさまは、私に常に見上げることを学習させ、見下す、見落とす、見過ごす、見失う等のちゃんと前を向いていないと起こりがちなありとあらゆる世の常を、全て消し去ってくれるきっかけとなった意識改革のシンボルでもある。
もともとディスコ時代の産物だったその輝きが、今も多種多様な現場で用いられ、近所の神社でもらってきたお守りのご利益のごとく、人々を眩しい光で照らし出し続けている。以前に書いていたブログのタイトル『人間味ラーボール』とは、そんなひかりであることを望んだ私の「音楽体感記」から構成されている。