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はじめて気持ち悪くなったダンス

通常、ダンスに招待され、行ったことの無い場所なら尚更、喜んで踊りに行くようになった。フルタイムで踊る生活も5年を過ぎた頃には、ダンスミュージックに特化したシーンに居た自分のままだったら敬遠していたであろう、DJがトップ40をプレイする一般大衆ウケする人気パーティーであっても、未体感先であるなら尚更、前売り券を買って出向くような、次の段階に突入していた。

それは、「人気」の字の意味のごとく、たくさんの人の気を集められるイベントだったら、音楽のポジティブな要素が注入されている集まりと信じたからだ。ダンスフロアでの笑い声や音に身を任せ気持ち良さそうに揺れ動く、その表情を観ているだけでも「ああ、今日ここに来てよかった」と感じることが出来た。そこで耳を澄ませ、何かが自分の中で聴こえ始めるや否やスイッチが入り、当方も既に踊り込んでいる。それがフロア入りする前から習慣化するようになっていた。


音楽の治癒力を自らの復活劇から一番分かっているつもりでいた。でも音楽を聴いて踊る行為が病いを治すと思って一度もやったことはない。でも音楽は最高の薬だと今は人に言っている。初めてのブログを書いた時に読んでくれていた友人の弟と札幌のフロアで初顔合わせした際、本を書く事を勧めてもらった発端というのが、実際に私が踊っているのを目の当たりにするや否や、「ああいう文章は故意に書いているものだと思っていたら違ったンだね。」と言っていた。それらの行為を頭で考えてやっていないし、なるほどと思ってやろうと試みもしたがやれないのが私。普段から壮大なテーマや結論を意識しながら踊り回転し続けていたら、治るハズの病気も治らないていたのではないか。ちなみにダンス教室へ通いたい欲望を抑えてきたのは、「自由意志」や「無意識」、さこから出てくる「自己発見」の感覚を失うのがイヤだったから。


ここまで書いたことに関連し、踊っていて気持ちが悪くなる初体験をしたので、これを書いておかないワケにはいかない。吐き気、めまい、頭痛に襲われる直前に取ったポーズのおかげで、持っていた先入観をさておき、トレンドになる前にヨガを始められていたことを改めて良かったと思う。自分勝手に想像していた「なんちゃってヨガ道場」からはほど遠く、驚くほどのその威力を初日から目の当たりにして、ガッツリハマった。インド半年滞在中にノンストップだった下痢も、ベトナムではアトピーだけでなく診断され初めて知った自分の喘息持ちも、ヨガで痛めた股関節でさえもヨガで完治してしまった。生まれて初めて逆立ちが出来たのを喜んだ記憶は今も残っている。しかし深呼吸慣れしていない生徒が初クラスで嘔吐した経験から、クラス前に食べることを先生は禁じていたその理由が、今回、身をもって分かった。


私をダンスへ誘ってくれた主催者の女性がサイコセラピストとは知らなかった。集まった人の半分がメンヘラで謎が溶けた。治療法の一環として体を動かすクラスを60年代後半から始め『ムーブメント』と呼ばれる領域ではパイオニア的存在。

一度みんなで手を繋ぎ輪になった時、何故か一人づつ歌うことになった。私はとても困ってしまった。人前で歌えば緊張して泣くとこれまで自ら言ってきた手前だ。とっさに「さくら」を歌い出せば声が震え出し、音程が掴めない状態に陥った。それまで落ち着きなく好き勝手な動作を続けていた参加者達が、さすが安定しないバイブスにきょとんとした表情で、みな集中し私を見つめ始めた。彼女は「無理しなくてもいいのよ。」と声をかけてくれたが、もう一度最初から歌い直し、途中から思い出せない部分の歌詞をすっと飛ばした矢先、日本語を知らない人々が応援してくれて、適当に一緒に口ずさみながらなんとかやり終えた。


昨年暮れに人前で初披露したポエトリー・パフォーマンス。極度の緊張に見舞われ、最初の10分内で声が音に着いていけなくなり、一旦落ち着こうと退去した。復活後も震えを抑えようとするがあまり、不安定な音程や弱い発声を意識すればする程ドつぼにハマった。仕舞いには感情が込み上げ泣いて、泣いた自分を見つめたら、泣きがおさまるという一連の出来事を思い出していた。実は、そのシミュレーションが、既に約2年前のこの踊り場で行われていたのだと、今、気づく。


みんなで描いた輪のまま床に座り話し終える頃、消えていた照明の電球のひとつが光を放った不思議は、ハイフリークエンシーのおくりもの。

48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。