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自分のこと優しいって思わないでくれ【映画ジョーカーの感想】

ネタバレ有だよ。

――心優しき男がなぜ悪のカリスマへ変貌したのか!?
映画ジョーカーのキャッチコピーなのだが、
観終わった後の俺には疑問が残った。
「ジョーカになる前のあいつ(アーサー)……。心優しかったけ?」

作中で僕が彼の「優しさ」を感じれたシーンは2つ。
・バスで子供相手におどける
・病気の母親の看護をしている

以上だ。

これだけを見せられてアーサーを優しい人認定することは俺にはできない。
言っちゃなんだがアーサーはグズでのろまだよ。
本人の責任ではない要素を踏まえても、生きていく力が足りていないよ。
そもそも病気の母がいるなら、なぜに芸人なんていう水物商売を志すかね。

「心優しかったアーサーは、自身の障害、度重なる不幸、周囲の無理解。
これらが積み重なり、ついには悪の権化、ジョーカーになりました。」

わかるんだ。
「周りと打ち解けられない」「金がない」「賢くない」「モテない」
このような生きづらさを抱えている「持たざる人」たちを総括して「優しい人」の枠にはめ込みたがる人たちの気持ちも。
そして自分を「優しい人」と信じることで、心救われている「持たざる人」たちの気持ちも。

そんな愚かな価値観に毒されてしまった身近のポンチ野郎の話をしよう。
テレビ制作の仕事をしている上ちゃんだ。

上ちゃんと俺は近所の酒場で知り合った。
彼は車椅子の彼女がいたが
ヤルことヤラずに数ヶ月で別れたという過去を持っており
遠い目をしながらその思い出話しを語ってくれた。
「金がないから遊べない。女が振り向いてくれない。」
酒を飲みながら自分の悩みを俺に打ち明けてくれた。

女の人にはわからんかもしれんが
こういう年下のダメ男に対して共感を覚えた男はすこぶる優しくなる。
後日、女っ気のない彼を俺は行きつけのスナックに呼んだ。

彼は僕の馴染みの女性店員さんと楽しく会話し、
俺のボトルを飲ませ、
カラオケを歌いまくっていた。
もちろん会計は俺持ち。

これでいい。
一夜の楽しみが彼と俺の明日につながれば俺は嬉しいのだ。

しかしその3日後、俺は上ちゃんの深刻さを知ることになる。
彼は俺が連れて行ったスナックの店員の連絡先を聞き
連日しつこくメッセージを送っていた。
馴染みの店員さんは迷惑そうに上ちゃんからのメッセージを俺に見せる。

「ヤマちゃん(俺)とはどんな関係なの?」
「趣味は?」
「俺ばっかり連絡してごめんね? うざい?」
「おはよう!昨日はごめんね」
「ねぇヤマちゃんとはどんな関係なの?」

うわぁ、責任感じる。
いらぬ迷惑をかけた女子店員にわびを入れる俺。
文面からするに、上ちゃんは女店員に好意を持っていた。
人の金で、一回店に来た男が、お水の女性と懇意になれるわけねぇだろう。

そして上ちゃんも俺に謝罪を送ってきた。
「ごめんね… なぜか嫌われちゃった… なぜ嫌われたのかわからない… 俺は結局モテないんだ…」
いや謝罪じゃない。謝罪の体裁を保っているが愚痴と嘆きだ。
これでも頭を抱える困った野郎だが、次の言葉が俺の拳を固くさせた。

「偽善者でいるのはやめる事に挑戦してみるよ」

いいえ。君は偽善者ではない。
『偽の善行をしている者』で決っしてない。

あと文法ちょっと間違っている。

挑戦するのは結構だがもっと根本的な問題が君にある。
こいつ、自分が善人だと思ってやがる。
そして自分の優しさが伝わらないことに憤っている。

上ちゃんもジョーカーと同じだ。
自分に落ち度がないと思っている。
なぜなら自分は「心が優しい」から
彼らが自分を「優しい」と思う根拠は。
「悪気がない」「悪いことしてない」だ。

しかし、悪気というのは、人を陥れようと企てることであって実際かなり頭を使って相手の立場を察する思考だ。彼らの場合は悪気がないんじゃなくて、「思考せず、心が向かうまま、無為自然に接している」が正しい。
悪いことしてないというのも延長で、「したいことを純粋にしてる」から悪いことという認識がないんだろう。法に触れないことすべてが悪いことしてないじゃない。自身の行動が誰かを傷つけたり嫌な思いをさせたら、それは悪いことなのだ。
つまること「相手のことをなんも考えていない」のだ。

そもそも優しいっていうのは積極的で行動的なものだよ。
何もしないで手に入る評価ではない。
「優しい」って本当に根性がいる。腕力がいる。体力がいる。
人に対して優しく接せるのは心の余裕が必須なんだ。

アーサーの自己認識では
ピエロという人を楽しませる存在の自分が、
人を笑わせたいという純粋な気持ちで生きている自分が、
優しいと思われないはずはないと信じている。

しかし周囲からはどうだろう。
同じマンションに住んでいる子持ち女と妄想して、
持病のせいとは言え突然奇声をあげて、
テレビで有名人になることを夢見ている。
最初っから最後まで危ないサイコ野郎だ。

上ちゃんもそうだ。
俺のことも、女店員のことも考えず
思うままに動いて、結果ディスられる。
「悪意なんかないのに」と悲しんでいる
ふたりとも自分のことで頭いっぱい。

こんな頭をしている人を笑わせることはない。
好意を持たれることもなし、幸せになることも夢を叶えることもない。
金あったり喧嘩強かったり社会的に強ければまだ可能性はある。
でも彼らはそれすらない。ナッシングトゥルース。圧倒的弱者。

でも人は脳内で自分のことを都合よく書き換える。
そんな「何もできない人」は「自分は悪いことをしない人」に、さらには「自分は優しい人」に変換する。
これが自称・優しい人の正体だ。

終盤の階段のシーン。
あのダンスは自分の万能感に酔っている人しかできない。
「自分は悪くない」という前提がピストルによって実行力を得た。
とんでもなく身勝手な人間の姿だ。

そして映画のラスト。
このストーリー自体が、
ジョーカーの作り話だったという余地が残されている。
誘導通り、そうだとしたらかなり悪質だよ。
「俺が起こした事件も大騒ぎも、優しい弱者人の悲しい境遇によるもの」
と言ってる。
優しい。悲しい。弱い。これらは危険な言葉だよ。
なにしでかしても説明になる最強の理由付けになる。

この映画「JOKER」は真に受けちゃいけない。
自分のことを「優しい」とか「かわいそう」って思っている人は全員ジョーカー予備軍だ。
自分の善性を大義名分にしてなにするかわかったもんじゃない。

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店員にこっぴどく嫌われた後の上ちゃんのLINE。
俺への八つ当たりらしき感情が見える

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