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『ほしのこえ』はセカイ系か

新海監督の次回作『すずめの戸締まり』の公開が11月11日(金)に決定し、それに先立って『小説 すずめの戸締まり』が8月24日に発売されます。これを目前に控えて、ふと思いついたことをつらつらと述べてみたいと思います。

初期新海作品を「セカイ系」とする意見

新海誠監督の初期の作品を「セカイ系」と評する見方があります。

東浩紀氏は2000年代初頭の作品群を批評する文脈で、『ほしのこえ』をセカイ系と定義しています。

たとえば、この数年、ブログを中心に、ライトノベルやその周辺作品に現れる想像力を形容するものとして、しばしば「セカイ系」という言葉が使われている。それは、ひとことで言えば、主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している。典型的な作品としては、高橋しんの二000年から二〇〇一年にかけてのマンガ『最終兵器彼女』、新海誠の二〇〇二年のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人の二〇〇一年から二〇〇三年にかけての小説『イリヤの空、UFOの夏』が挙げられることが多い。

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年

東氏のセカイ系の批評によると、セカイ系作品には次の2つの要素を満たす必要があると言えます。

  1. 主人公と恋愛相手(「きみとぼく」)の小さく感情的な人間関係が「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結する

  2. 社会や国家のような中間項が描写されない

榎本正樹氏は東氏の議論を受けて、セカイ系の特徴を

日常と非日常、現実と非現実、ミニマリズムとマキシマリズムなど、極限的な近景(日常生活)と遠景(宇宙)が同時的に描かれてるのがセカイ系の作品の特徴である。そこでは中景(家族、社会、国家)が意図的に取り除かれる。

榎本正樹『新海誠の世界』KADOKAWA、2021年

と定義し、新海監督の各作品がどのようにセカイ系であるかを論じています。

『ほしのこえ』については、物語を短編作品の時間内に収めるために、物語を支える重要な設定や家族・社会の描写を省略するという工夫を行った結果、近景と遠景が串刺しになるセカイ系の構造が成立したとします。

『ほしのこえ』の物語の背景を、作品から得ることができる範囲でまとめてみたい。
二〇三九年、第一次火星調査隊はタルシス台地で遺跡を発見するが、異生命体のタルシアンに全滅させられる。タルシス遺跡に遺されていたテクノロジーを得た人類は、タルシアンを追う。二〇四七年の冬、ミカコは千人以上からなる大船団リシテア艦隊でタルシアン調査の旅に出発する。ノボルやミカコの家族は、作中に一度も登場しない。日本の市民生活や政治・経済状況、国家間の関係も説明されない。国連軍の詳細も不明である。そしてタルシアンの正体や、彼らがなぜ人類と敵対するのかについても明かされない。
物語を支えるこれら重要な背景は、作中であえて描かれない。というより、描かれないことによって描かれている。すべては観客の想像に委ねられる。アニメーションは時間に拘束されたメディアである。規定の時間内に物語を終わらせるためには「省略」や「編集」が必要になってくる。「何を描くか」ではなく、「何を描かないか」が重要視される。時間的に制限のある短編作品であればなおさらである。加算ではなく減算の発想を採り入れた時、「中景の切り捨て」が必然として立ちあがってきたのだろう。それは新海が推し進めた表現レベルの効率性や経済性の問題にも関わってくる。新海のこのような製作のスタンスが、結果として近景と遠景を大胆に串刺しにした、後にセカイ系の代表作と呼ばれることになる『ほしのこえ』を誕生させる要因になったのである。

榎本正樹『新海誠の世界』KADOKAWA、2021年

そして『雲のむこう、約束の場所』でも同様に、家族・社会の描写が省略された結果、セカイ系の構造が成立していると述べます。

三人の主人公の家族や、社会や国家システムに関する描写が意識的に省かれている。これらの中景が抜かれることで、近景と遠景を一気に接続する、セカイ系の表現世界が際立つ仕組みになっているのである。

榎本正樹『新海誠の世界』KADOKAWA、2021年

しかし、新海監督自身は『天気の子』公開時のインタビューで、『ほしのこえ』の製作に際してセカイ系を意識した作品作りはしていない、という発言をしています。

確かに、新海監督の特に初期の作品群は、東氏や榎本氏の述べるようにセカイ系にのように見えます。しかしその内容をよく検討してみると、東氏や榎本氏のセカイ系の定義には該当しないように思えます。

新海作品の映像表現の特徴

新海監督の名を世間に知らしめた『ほしのこえ』は、一般ユーザーでも購入可能な民生用の機材で製作されました。よく知られているように、新海監督はもともとアニメーション業界とは縁がなく、ほとんどの作業を新海監督一人で行わなければならず、アニメーション製作はハードルが高い行為でした。このハードルを超えるため新海監督が行った様々な工夫を、榎本氏は次のようにまとめています。

「脚本も書いたことがない」「3DCGのすごい技術もない」「スタジオにいたこともない」「動画も描けない」と、ないない尽くしの状況下で新海が選択したのが、「できることだけを、なるべくいい形で見せていく」方法であった。ここには究極の「引き算の思想」がある。「できること」と「できないこと」を検証し、できないことは棄却し、できることの可能性に力を注ぐ。この発想から、新海ならではの経済原理に裏打ちされた独自の映像表現が生みだされていった。表現の可能性とは、「あれもこれも」の網羅主義からではなく、ある種の「不自由さ」から湧きだしてくるものである。その意味において、新海の採った方向性は結果的に正しかったといえる。

榎本正樹『新海誠の世界』KADOKAWA、2021年

榎本氏は、新海監督が『ほしのこえ』の製作に際して、自身の能力の限界を冷静に見極め、限られたリソースを最大限に効率よく利用するために「できること」と「できないこと」を整理し、「できること」に力を集中させた結果、独自の映像表現を生み出すことに成功したのであるとします。前掲引用文にて榎本氏が

規定の時間内に物語を終わらせるためには「省略」や「編集」が必要になってくる。「何を描くか」ではなく、「何を描かないか」が重要視される。時間的に制限のある短編作品であればなおさらである。加算ではなく減算の発想を採り入れた時、「中景の切り捨て」が必然として立ちあがってきたのだろう。

榎本正樹『新海誠の世界』KADOKAWA、2021年

と述べているように、中景を省略した描き方は限られたリソースを最大限に効率よく利用したことで生まれたものです。仮に『ほしのこえ』『空のむこう、約束の場所』が「近景と遠景を一気に接続」しているように見えたとしても、それは製作の都合で中景を省略した結果偶然生みだされた効果(あるいはミスリーディング)であり、新海監督の意図したものではないと思います。

キャラクターの行動原理

次に、キャラクターが作中でどのように考え、どのような意図で行動しているのかを考えてみたいと思います。

『ほしのこえ』のミカコはリシテア艦隊の乗組員に選抜され、タルシアンと激しい戦闘を行います。

しかし、冒頭のミカコのセリフに

『世界』っていう言葉がある。私は中学の頃まで、『世界』っていうのはケータイの電波が届く範囲なんだってバクゼンと思っていた。でも、どうしてだろう、私のケータイは誰にも届かない。

とあるように、ミカコ自身の関心の大部分はノボルへメールを送信できるか、そしてノボルからのメールを受信できるかに置かれています。そもそも、『ほしのこえ』という作品は

「宇宙と地上とで引き裂かれる恋人たちの距離感を、携帯メールで表現する」

というアイディアを映像化させたものです。そのため、「タルシアンとの戦い」という世界の危機は単なる舞台背景に過ぎず、別の設定(例えば宇宙への移民など)でも代替可能であり、作品にとって必要不可欠なものとは言えません。制作の都合により近景と遠景が直結しているように「見える」ものの、実際には両者にはなんの関係もなく、そのため東氏のセカイ系の定義には該当していないと思います。

『雲のむこう、約束の場所』においても、塔は主人公が属する本州側にとって軍事的な脅威になっています。しかし、作中では塔の機能はサユリの眠りにより制限されており、実際の被害は受けていません。また、南北の政治的対立構造は塔の存在の有無とは無関係であり、仮に塔が建設されなかったとしても軍事的緊張関係はあったでしょう。実際作品後半に、戦争を開始する際の政治的判断に塔の存在はそれほど影響を与えていない、というセリフがあります。おそらく、塔を破壊するというヒロキの行動は、戦争全体の趨勢にそれほど大きな影響は与えていないでしょう。このように考えてみると、ヒロキ・タクヤ・サユリ三人の約束が世界情勢に大きな影響を与えているとは思えず、やはり東氏の定義に該当しないと思います。

『ほしのこえ』と『雲のむこう、約束の場所』は一体どのような作品

それでは、『ほしのこえ』と『雲のむこう、約束の場所』は一体どのような作品なのでしょうか。

この問題を考える上で参考になるのが『秒速5センチメートル』です。

『秒速5センチメートル』第一話「桜花抄」にて、転校先で知り合った遠野貴樹と篠原明里は互いを特別な存在だと感じるようになり、これからの人生でずっと一緒にいられると思うようになりました。しかし、それぞれの親の転勤により離れ離れになってしまいます。ここでは、貴樹と明里二人だけの「子供の世界」とは別次元で「大人の世界」が存在しており、「子供の世界」に存在するかけがえのない約束は「大人の世界」の都合により簡単に無効化されてしまいます。

この「子供の世界」の約束が「大人の世界」の都合により無効化されるという構図こそ、『ほしのこえ』と『空のむこう、約束の場所』の物語を動かす原動力になっているのではないか思います。

『ほしのこえ』では、ノボルはミカコに「同じ高校に行く」という約束を提案しますが、ミカコのリシテア艦隊への選抜という「大人の判断」により、約束は果たせなくなり、別々の時間を生きることになります。後年、大人になったノボルは宇宙艦隊勤務になり、もう一度ミカコと同じ時間を生きるために宇宙へ旅立ちます。

『雲のむこう、約束の場所』でヒロキ・タクヤ・サユリが交わした約束は、サユリが塔(大人が建築した存在)の影響を受けたことで果たせなくなります。高校生になったヒロキは今度こそサユリを塔に連れて行くことに成功しますが、しかし今度は「約束の無い世界を生きる」という新たな課題と向き合うことになります。

「子供の世界」を近景とすると、「大人の世界」は中景に相当するものです。そのため、『ほしのこえ』『空のむこう、約束の場所』は近景と遠景が直結したセカイ系の作品ではなく、近景と中景の葛藤を描いた作品であり、思春期の複雑な感情を主題とする作品であり、根本的なところでは『秒速5センチメートル』と類似の作品であると言えるのでしょう。


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