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ようやく『言の葉の庭』『君の名は』『天気の子』感想

下北沢のミニシアター「トリウッド」で2022年2月2日(水)~3月6日(日)の期間中、恒例の特集上映『新海誠監督特集2022』が開催されたので、今年も新海誠監督の全作品を一気見してきました。

https://tollywood.jp/showing

私は『雲のむこう、約束の場所』以来の新海監督のファンですが、正直に言って、『言の葉の庭』以降の作品をいまいち楽しむことができず、初期の作品の方が面白いと感じてしまいます。

なぜそのように感じるのか、これまで自分でもその理由がよく分からなかったのですが、今回新海監督の作品を一気見したことでずっと感じていたもやもやの正体にようやく気づくことができました。このnoteでは新海監督の『言の葉の庭』以降の作品に対して私が感じたことを垂れ流したいと思います。

『言の葉の庭』の感想

雪野が「スーツを着る」目的は何?

ヒロインの雪野が「毎日スーツを着て学校に出勤しようとするが、どうしてもできない」気持ちを吐露する描写が作中にありますが、一体雪野は何のために出勤しようとするのでしょうか?

物語開始時点で雪野はすでに休職していると私は解釈したため、出勤する必要がないのになぜ毎日スーツを着るのか疑問でした。それとも、実際にはまだ休職になっていないのでしょうか?

私は教員ではないので学校の勤怠管理がどのように行われているのか知りませんが、仮に休職中ではないとして、連絡無しにいきなり休んだら学校ではもっと問題になるのではないでしょうか?もちろん、「作中で描写されていない=孝雄が認識していない」だけかもしれませんが…

孝雄の友人は「いつ」行動した?

学校での雪野の状況を、孝雄は同級生と思われる友人から聞きます。その友人は雪野の授業を受けていたらしく、雪野を助けようと行動したことを孝雄に語ります。しかし、友人は「いつ」雪野を助けようとしたのでしょうか?

孝雄は15歳の高校1年生であるため、友人も1年生と考えられます。孝雄が新宿御苑で雪野と初めて出会ったのは6月であり、その時点で雪野は精神的にひどい状態になっています。おそらく雪野に対するいやがらせは前年度から続いていたのでしょう。

そうすると、孝雄の友人が雪野と関わることができたのは、最長でも4月から5月の2ヶ月間ですが、この短期間に1年生が雪野のおかれている状況を正確に把握し、雪野のためにわざわざ行動したのでしょうか?

孝雄の夢は「誰に」否定されたのか?

マンションの階段の場面で、孝雄は雪野に対し

靴職人になんてなれるわけないって、本当は思っていたんだろ!!

と怒りをぶつけますが、果たして雪野は孝雄の夢を否定したのでしょうか?

雪野の行動を抜き出してみると、孝雄の靴のデザイン画を褒め、弁当のお礼として靴制作に関する高価な本を孝雄にプレゼントし、靴の製作を孝雄に依頼しています。こうした行動からは、むしろ孝雄の夢を応援しているように見えます。

作中で孝雄の夢を否定する発言をした人物を挙げるとすると、それは孝雄の兄ではないでしょうか。孝雄の兄は孝雄が自作した靴を「不格好」と評し、孝雄の夢の実現性を低く見積もっています。そのため、夢を否定されたことに対する怒りは兄に対して言うべきであって、雪野に怒りをぶつけるのは筋違いではないでしょうか?

それでいいのか、雪野先生

雪野のマンションで、孝雄は雪野に好意を伝えます。雪野は一度は孝雄の気持ちを拒絶しますが、ラストで孝雄の気持ちを受け入れています。(受け入れたと私は解釈しました。)ですが、この結末で本当に良かったのでしょうか?

雪野が休職してしまった原因は、「生徒に手を出した」という事実無根の中傷を学校で受け、自身の無実を誰にも信じてもらえなかったことです。雪野が孝雄の気持ちを受け入れてしまっては、(もう退職済みとは言え)「生徒に手を出した」という嘘が事実になってしまいます。果たして、このような結末で雪野はもう一度歩きだすことができるのでしょうか?

作品の構造上の問題

以上が『言の葉の庭』において描写が不十分・不適切ではないかと感じた点です。なぜこのような問題が起きてしまったのか、その原因は作品の構造にあるのではないかと思います。

『言の葉の庭』本編は、孝雄と雪野というこれまで関わりのなかった二人が雨の新宿御苑で出会ったことから始まる物語です。しかし、本編開始以前に、「靴の美しさに魅了された幼少期から15歳の高校生になるまでの孝雄の物語」と、「教師になるという夢を抱いてから27歳で歩き方を忘れるまでの雪野の物語」という2つの物語が個別に存在しており、『言の葉の庭』本編はこれら2つの物語が交差した最後の1年間のみを切り取ったものであるとも言えます。

『言の葉の庭』はこのような構造の作品であるため、46分という上映時間の中で、物語の設定を過不足なく説明しつつ、孝雄と雪野二人の視点を切り替えながらそれぞれが抱える問題を提示し、その上で男女の恋愛物語としての起承転結を構築する、という寄木細工のようなことをする必要があります。

物語の語り手を切り替えながら物語を描くという手法は『秒速5センチメートル』でも採用されています。『秒速5センチメートル』は、貴樹・明里・香苗・理紗という4者の出会いを分かれを描く短編集です。作中では10数年の時間が経過しますが、各話ごとに物語の語り手が入れ替わります。第1話では貴樹の視点から物語が語られ、第2話では香苗の視点で、第3話では貴樹、明里、そして理紗の3者の視点で語られた後、10数年間の出来事のダイジェスト映像が流れます。

『秒速5センチメートル』は作中での経過時間に対して映画の尺が圧倒的に短く、特に第3話の内容はかなり断片的です。そのため、映像の中で何が起きているのか、理解しにくい箇所が複数あり、観客は第1、2話の内容を元にして「たぶんこういうことだろう」と推測する必要があります。『秒速5センチメートル』には小説版が2種類、漫画版が1種類存在しますが、それぞれ物語の細部が異なっており、特に「遠野貴樹」という登場人物の造型に大きな違いが見られます。それらの様々な「遠野貴樹」が生まれが原因は、解釈を一様には決めにくい第3話にあるのではないかと思います。

『秒速5センチメートル』の構造を念頭に置きながら『言の葉の庭』を見てみると、『言の葉の庭』は『秒速5センチメートル』の第3話に相当する部分のみで構成された映画なのではないかとふと感じます。仮にそうだとすると、『秒速5センチメートル』では3話かけて積み上げた物語を、『言の葉の庭』では1話のみで組み立てることになり、『秒速5センチメートル』以上に綿密にストーリーを構成する必要があります。

しかし、映像表現は『秒速5センチメートル』から大きく進歩しているものの、キャラクターの設定や時系列の整理が不十分ではないかと感じました。そして、このストーリー構成上の課題は後の作品でも解決されていないように思います。

『君の名は』感想

しっかりしろよ、宮水家

三葉の実家である宮水家は、代々宮水神社の宮司を務め、さまざまな風習が伝えられています。しかし、そうした風習の意味の多くは、江戸時代の火災時に古文書が焼失したことで分からなくなってしまいました。瀧は御神体の祠の中で口噛み酒を飲み、そして祠内に描かれた古代の壁画を見たことで、風習が隕石墜落の危険性を伝えていたことに気づき、過去から現在に続く「結び」を感じます。

しかし、なぜ瀧という部外者が一目で気づいた事実に、宮水家の人々は気づくことができなかったのでしょうか?

宮水家の人間は、神事を行うために毎年御神体の祠を訪れています。仮に懐中電灯で祠の中を照らしてみれば、壁画の存在に気づけたはずです。特に、一葉おばあちゃんは何十年間も祠を訪れていたはずですが、壁画の存在を知らなかったのでしょうか?

また、古文書が消失してしまった江戸時代の火災も、宮水家が代々受け継ぐ夢の力で防ぐことはできなかったのでしょうか?夢の力を使えば何千人もの人命を隕石から救えるのですから、火災から古文書を救うくらいのことは朝飯前のように思えるのですが。

仮に古文書の焼失は避けられないとしても、その古文書を読んだことがあれば内容をある程度覚えているのではないでしょうか。覚えている範囲だけでもそれを書き残しておけば、もう少し言い伝えを残すことができたはずです。それとも、江戸時代の宮水家の人間は古文書を読んだことがなかったのでしょうか?風習を守ることは宮水家の最も大事な仕事のはずなのに。

大昔、糸守に隕石が落下したことは、町のHPにも記載されている周知の事実です。そのため、宮水家がもっとしっかりしていれば、瀧という部外者の助けをわざわざ借りなくても、災害から町を守ることができたはずです。

それでいいのか、テッシー

三葉の友人の一人であるテッシー(勅使河原克彦)の父親は建築業を営んでいます。テッシーは周囲から父の跡を継ぐことを当然視されており、そうした自身の境遇に対してテッシーは閉塞感を感じているようです。

しかし、テッシーが父親に対して反抗するような描写は作中にありません。

例えば、隕石から糸守の人々を救うために、テッシーは三葉(中身は瀧)と共に計画を考えます。この時のテッシーは水を得た魚のように生き生きとします。しかし、祭り会場で父親から「何をやっているんだ」とどなられると、途端に動きを止めてしまいます。

エピローグにて、テッシーと早耶香は東京の飲食店で結婚式の話し合いをしています。おそらく隕石落下の後、テッシーは糸守を離れて東京に移住したのでしょうが、故郷の滅亡による家業からの解放と東京移住について、テッシーはどのように感じているのでしょうか。

もう一度ミカコに会うために宇宙艦隊勤務になった『ほしのこえ』のノボルや、サユリとの約束を叶えるためにヴェラシーラを飛ばした『雲のむこう、約束の場所』のヒロキと比較して、自身の境遇に対して閉塞感を感じつつも自分の力でそこから抜け出そうとはせず、父親という権威に対して従順なテッシーは、自分の力で問題に立ち向かおうとする主体性が欠如している気がします。

瀧くん、イケメンすぎるだろ

『君の名は』の主な語り手は瀧であり、瀧は悲劇的な結末を回避するために様々な努力をしました。そのため、『君の名は』におけるメインヒーローは瀧であると言えるわけですが、しかし、「瀧をヒーローする」という脚本上の都合のせいで、他のキャラクターが割りを食ってはいないでしょうか。瀧のイケメン度が上がるのと反比例して、他のキャラクターがダサくなっているような気がします。

『君の名は』は、少年と少女が夢の中で出会い、大災害から人々を救おうとする典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語です。しかし、「『君の名は』という作品世界における最適解は何か」という点を考えてみると、『君の名は』のストーリーは「ハッピーエンド」ではあるけれど「トゥルーエンド」ではない気がします。私が考える「トゥルーエンド」とは、宮水家を中心とする糸守の人々が自分たちの力のみで大災害から人々を救うルートであり、このルートにおいては「立花瀧」というキャラクターが登場する余地はありません。そして、「ヒロインがトゥルーエンドに到達するのを妨げているのは主人公ではないか」という問題は、『天気の子』で如実に現れます。

『天気の子』感想

帆高に何ができるのか

『天気の子』は、離島から家出して東京にやってきた帆高が「晴れ女」の力を持つ陽菜と出会う物語であり、「もう一度陽菜に会いたい」という帆高の強い気持ちにより、東京を海に沈めるのと引き換えにして陽菜を空から地上に連れ戻します。一見すると帆高の行動によって陽菜が救われたように見えます。しかし、本当に帆高の行動で陽菜は救われたのでしょうか?また、帆高でなければ陽菜を救うことはできなかったのでしょうか?

作中での帆高から陽菜に対してどのような働きかけがあったかを列挙してみると、主なものな

  1. 水商売をしようとする陽菜を止める

  2. 陽菜に「晴れ女ビジネス」を提案する

  3. 行政により保護されそうになる陽菜・凪姉弟を連れて逃げ出す

  4. 陽菜を空から連れ戻す

の4つでしょう。

1の帆高の行動により、陽菜が危険性のある仕事をする事態から回避できました。これは帆高の功績と言ってよいでしょう。しかし、陽菜に水商売をさせようとしていたスカウトは「未成年に水商売をさせてはならない」という常識を持っており、仮に陽菜がスカウトに対して本当の年齢を伝えることができれば、スカウトは陽菜に水商売をさせない可能性が高いです。そうすると、『天気の子』作中では帆高が陽菜の水商売を止める役割を果たしましたが、これは「帆高にしかできない唯一無二の役割」ではなく、他の人あるいは陽菜自身がその役割を演じることも可能です。そのため、1の行動は「帆高でなければできないこと」とは言えないでしょう。

2は、身寄りがなく経済的に困窮する陽菜と凪のために帆高が提案したことです。しかし、これは3とも関連することですが、現代の日本には行政等により身寄りのない子供を保護するシステムが存在しており、陽菜・凪姉弟にとってはそうした保護を受けることが客観的にベストな選択でしょう。実際、行政は陽菜と凪の生活状況を把握しており、二人を保護するための手続きが進められています。また、陽菜は晴れ女の力を使った代償として体がだんだんと透明になってしまい、最後は空に消えてしまいます。短期間で代償がここまで進行してしまったのは、「晴れ女ビジネス」を短期間に高頻度で受注したことが原因ではないかと考えられ、晴れ女の力を使う頻度がもっと少なければ、晴れ女としての寿命はもっと長かったのではないでしょうか。このように考えてみると、2の帆高の行動は、陽菜に対する善意からのものでしょうが、かえって事態を悪化させています。

3で、陽菜と凪が帆高の提案を受け入れたのは、行政の保護を受けることで生活環境が変わってしまうことに対する不安が原因と考えられます。しかし、2でも述べたように、陽菜・凪姉弟にとっては保護を受けることが客観的にベストな選択です。しかも、帆高は逃げることを提案しておきながら「どこにどのように逃げるか」という点については何の考えもなく、いたずらに夜の東京をさまよって陽菜と凪を不安な気持ちにさせ、陽菜の気持ちに連動した異常気象を引き起こしてしまいます。作中、帆高の向こう見ずな行動がしばしば見られますが、陽菜と凪を危険に晒した3の行動は、向こう見ずな行動の中でも悪質なものではないかと感じます。

4では、「もう一度陽菜に会いたい」と帆高が強く願ったことで、陽菜を空から連れ戻すことができました。しかし、「もう一度陽菜に会いたい」と思っていたのは帆高だけではなく、陽菜の唯一残された肉親である凪もそのように思っていたはずです。仮に、陽菜の晴れ女としての本来の寿命が数年間あり、寿命が切れるタイミングで凪が中高生になっていれば、凪の願いで陽菜を連れ戻すことも可能なのではないでしょうか。結局、4も「帆高でなければできないこと」とは言えないと思います。

『天気の子』という物語では帆高が陽菜を救う役割を演じました。しかし、帆高以外の人でも陽菜を救うことは可能であり、帆高にしかできないことはそれほど多くありません。その上、凪が「全部帆高のせいだろ!」と叫んだように、帆高の行動が原因で事態が悪化した可能性もあります。

新海監督はRADWIMPSの「大丈夫」という曲にヒントを得て『天気の子』のラストシーンを作りました。「大丈夫」の歌詞には「君を大丈夫にしたいんじゃない。君にとっての『大丈夫』になりたい。」とあり、ラストシーンで帆高は「僕たちは、大丈夫だ」と叫びます。しかし、作中での帆高の行動からは、帆高が陽菜の「大丈夫」になれるとは私には思えず、帆高の叫びに対しては、「大丈夫じゃないだろ」とツッコミを入れたくなってしまいます。

帆高は社会から「逸脱」したのか?

『天気の子』という作品の方向性は、帆高が持っている本『The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)』が示しているように、また新海監督がインタビューで答えているように、「社会の規範からの逸脱」「帆高と社会の対立」を描こうとしています。ネット上でのレビューでも、『天気の子』を少年少女と社会との対立という観点から考察したものが多数あります。

しかし、「帆高は社会の規範から逸脱・対立していないのではないか」と私は感じます。

「逸脱」「対立」という言葉の意味を調べてみると、


いつ‐だつ【逸脱】
〘名〙
① 必要な物事を、誤って抜かすこと。また、抜けること。
※閑談の閑談(1933)〈吉野作造〉三「秘密出版なだけ誤脱多く、続けざまに数行を逸脱して、意味の通ぜぬ部分も二三ヶ所ある」
② 本来の意味や目的からはずれること。決められた範囲からはみ出すこと。
※帰郷(1948)〈大仏次郎〉再会「命令を逸脱してをったのぢゃないか」

https://kotobank.jp/word/%E9%80%B8%E8%84%B1-434363


たい‐りつ【対立】
〘名〙
① (━する) 反対の立場にある者が互いに譲らないこと。また、同等の地位で二つの事柄が対をなして両極から向かいあっていること。向かいあって立つこと。対峙(たいじ)。たいりゅう。〔附音挿図英和字彙(1873)〕
※善心悪心(1916)〈里見弴〉「他人との対立(タイリツ)に於てでなく、自分一人の、絶対の自由を」
② 伝統的形式論理学で、同じ主語と述語をもつが、質と量において異なる四種の定言命題の間に成立する関係。全称肯定、全称否定、特称肯定、特称否定の諸命題間に成立する大小対当、矛盾対当、反対対当、小反対対当の関係。対当。対当関係。〔哲学字彙(1881)〕

https://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E7%AB%8B-558777

とあり、新海監督の言う「逸脱」は➁の意味で、「対立」は➀の意味でしょう。

作中の帆高の行動から「社会の規範からの逸脱・対立」に見えるものを挙げてみると、

  1. 島からの家出

  2. 繁華街のゴミ箱で銃を拾った銃を水商売のスカウトに向けて発砲する

  3. 行政の保護を拒否して陽菜・凪を連れて夜の東京をさまよう

  4. 警察署から逃亡する

  5. 陽菜を助けることと引き換えに東京を海に沈める

といったことが挙げられます。確かに、島からの家出は「島」という社会からの逸脱であり、また銃を所持して発砲するのは銃刀法違反に該当するでしょう。そして、行政の保護を拒否したことや警察署から逃亡したこと、東京を海に沈めたことは、帆高と社会の対立と見ることができます。

しかしながら、「島」という社会から逸脱した結果到達したのは「東京」という別の社会です。帆高は「東京」という社会で生きるためにバイトを探し、須賀圭介が経営する編集プロダクションに住み込みで働くことになります。そのため、家出という行為は、ある社会から別の社会への移動に過ぎず、真の意味での逸脱とは言えません。

銃の発砲にしても、帆高自身は銃をモデルガンだと思っていた旨の発言しており、人を傷つけてしまう危険性を認識すると、それを廃ビル内に捨てました。漫画『デスノート』で、「デスノート」という超常的な力を用いて新世界の神になろうとした夜神月とは違い、帆高は銃という圧倒的な武力を使って何かをする考えは無いようです。陽菜の晴れ女の力に対しても、それを東京で生活するための生活費を稼ぐ手段としてしか利用しておらず、社会を変革しようとは考えていません。

さらに、大多数の人にとっては雨が止んだほうがよいという認識は帆高も持っており、東京を海に沈めたことにたいして罪悪感を抱いているようにも見えます。そもそも、作中で雨が止まなくなった原因は明確になっていませんが、「陽菜の何らかの行動により雨が止まなくなった」わけではないでしょう。そのため、「雨が止まない」こと自体に関する責任は陽菜に無いはずです。また、陽菜の力はオカルトの世界に属すものであり、それを科学的には証明することは不可能でしょう。因果関係を証明できない以上、陽菜と帆高の行為を現代の日本のシステムで罰することはできません。

行政の保護を拒否したことと警察署から逃亡したことは明らかに社会との対立です。しかし、帆高がこのような行動をしたのは、大人が帆高の行動や欲求が制約しようとしたためであり、欲求がある程度充足されている状況では、帆高も社会に対して順応しています。

島という閉鎖された社会から逸脱して、東京で自由な生活を満喫したように見えて、実はその東京も様々なルールでがんじがらめになった社会であり、帆高が東京の生活を満喫できたのは、圭介という大人の庇護下に置かれたからです。

要するに、帆高は社会という「システム」に対して意見を表明しているのではなく、帆高の行動や欲求を制約しようとする特定の人・状況に逆らっているだけであり、「子供のわがまま」の範疇を超えていないのではないでしょうか。

帆高の真の敵は「誰」?

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、高校を放校となった17歳の少年ホールデン・コールフィールドがクリスマス前のニューヨークの街をさまよう物語であり、ホールデンの内面の動きを描いています。

ウィキペディアの解説では、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を

ホールデンは社会や大人の欺瞞や建前を「インチキ(phony)」を拒否し、その対極として、フィービーやアリー、子供たちといった純粋で無垢な存在を肯定、その結果、社会や他者と折り合いがつけられず、孤独を深めていく心理が、口語的な一人称の語りで描かれている。

と評しています。『天気の子』を解釈する上で、私は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』内の2つの対話に注目します。

一つは、ホールデンとフィービーの対話です。ホールデンはフィービーのことを「無垢な存在」と捕らえています。確かに、フィービーは基本的にホールデンの味方です。しかしながら、たとえばホールデンが学校を退学になったことに気づくとその理由を詰問し、

「学校を追い出されたんだわ!そうなんだわ!」とフィービーは言った。それからこぶしで僕の脚を叩いた。この子は興奮するとやたらぼかぼか人を殴るんだよ。「ひどいわ!ああ、ホールデンったら!」(中略)そして出し抜けにフィービーは言った。「ねえ、どうしてそんなことになったのよ、まったく?。」つまり、どうしてまた学校を追い出されちまったのかっていうこと。そんな言い方をされると、僕はなんとなくうらぶれた気持ちになった。

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

またホールデンが父親の職業である弁護士をバカにする発言をすると、その発言を非難します。

「お父さんに殺される。お父さんに殺されちゃうんだから」

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

そして、ホールデンの常軌を逸した発言・行動を、「すべてが気に入らないのよ」という一言で片付けてしまっています。

「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」
それを聞いて、僕はさらにぐんぐん落ち込んでしまった。
「そうじゃない。そういうんじゃないんだ。絶対にちがう。まったくもう、なんでそんなことを言うんだよ?」
「まさにそのとおりだからよ。あなたは学校と名のつくものが何もかも気に入らないじゃない。気に入らないことがごっそり百万個くらいあるじゃない。そのとおりでしょう?」
「そんなことあるもんか!それは言いがかりだ。君の大きな考え違いってもんだ。なんでそんなひどいことを言うんだ?」やれやれ、僕はこてんぱんに落ち込んだよ。
「なんでもかんでも気に入らないのよ」とフィービーは言った。「気に入っているものをひとつでもあげてみなさいよ」
「ひとつでいいんだな。僕が気に入っているものをひとつでもあげれば?」と僕は言った。「いいとも」
問題は、うまく集中してものを考えられないってことだった。

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

つまり、フィービーはホールデンの味方ではあっても、理解者ではないのです。

もう一つは、ホールデンが以前通っていた学校の教師であるミスタ・アントリーニとの対話です。

アントリーニのことをふと思い出したホールデンは、相手の迷惑を顧みずに電話をかけます。アントリーニはホールデンが学校をまた退学になったことを知ると、彼を自宅に招き入れ、ホールデンの話を親身に聞きました。そして、アントリーニはホールデンが

きわめておぞましい落下傾向にはまりこんじゃっている

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

状態にあり、

無価値な大義のために、なんらかのかたちで高貴なる死を迎えようとしている

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

と指摘しました。このような状態に陥るのは

人がその人生のある時期において何かを探し求めているにもかかわらず、まわりの環境が彼にそれを提供することができない場合

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

または

まわりの環境は自分にそれを提供することができないと本人が考えたような場合

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

であるとアントリーニは述べ、ホールデンに対し精神学者ヴィルヘルム・シュテーゲルの

『未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』

村上春樹訳『ャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社、2006年

という言葉を贈ります。つまり、アントリーニは人生の先輩として、ホールデンに対し成熟した大人になることを勧めたのです。

この2つの対話を念頭に置いて『天気の子』を見返してみると、完全に一致するわけではありませんが、フィービーを役割を果たすのが陽菜であり、「大義のために卑しく生きること」を体現しているのが圭介ではないかと感じます。

帆高は水商売を始めようとする陽菜を止め、陽菜のために「晴れ女ビジネス」を提案し、陽菜・凪兄弟を夜の東京に連れ出し、陽菜を空から連れ戻しました。これらの行動において、帆高は陽菜や凪という無垢な存在を守ろうとする「保護者」の役割を演じています。

しかし、そもそも陽菜が水商売をしてまでお金を稼ごうとしたのは、凪という唯一の家族との生活を守るためであり、また陽菜が晴れ女になったきっかけは、「もう一度母と一緒に晴れた空の下を歩きたい」という願いです。そして、自身の存在意義をみんなに笑顔になってもらうために晴れ女の力を使うことに見出します。このように、陽菜にとって大事なのは家族であり、自分を犠牲にしてまで周囲の人を幸せにしようとします。こうした価値観は、家族を捨てて東京にやってきた帆高のそれとは大きく異なっているのではないでしょうか。

帆高の「人に銃を向ける」という行為に対しては、人を傷つけてしまう可能性を指摘し、帆高の後先考えない行動を非難しました。

さらに、何度も述べているように、陽菜はいわゆる「ヤングケアラー」であり、陽菜にとってベストな選択は、行政の保護を受け、普通の中学生らしく学校に通い、友だちと遊び、恋愛することです。これらは、帆高が島に捨ててきたものであり、「家出少年」という立場上行政に対して警戒心を抱かざるを得ず、卒業式で『蛍の光』を歌わなかった帆高が「東京」に求めているものではありません。

私には、帆高と陽菜は根本的なところで価値観がズレているように思えてなりません。仮に彼らが交際を続けたとしても、価値観の不一致が時間とともに膨れ上がり、どこかのタイミングで二人の関係性は破綻してしまうのではないでしょうか。貴樹と理紗が「1000回メールしても心は1センチも近づけなかった」ように。

圭介もかつては家出少年でした。そのため、自分と同じ家出少年である帆高に同情し、彼に居場所を提供しました。しかし、作中での圭介はすでに成人した大人であり、もはや家出少年ではありません。彼は家庭を築き、仕事を持ち、社会を構成する一員として生活しています。

現在の圭介にとって最も重要なことは、娘と一緒に暮らせるようになることです。そのためなら反りが合わない義母に対しても礼儀をわきまえた対応をし、生活費を稼ぐために取引先である出版社に対して頭を下げます。そして、警察から嫌疑をかけられることを恐れて、帆高に島への帰還を勧めます。

自分の行動を制約しようとする大人たちに逆らう帆高が「大義のために高貴なる死を求める」存在だとすると、圭介は「大義のために卑しく生きる」存在と言えるでしょう。自分の意思を貫くために暴れまわる帆高にとって、家族を守るために社会に妥協した圭介は「裏切り者」ではないでしょうか。

今後も「大義のために高貴なる死を求める」少年のままであり続けるのか、それとも「大義のために卑しく生きる」大人になるのか、あるいは世界を変革する革命家になるのか、今後の帆高の生き方を決める上で、陽菜と圭介の二人こそ帆高の前に立ちはだかる潜在的な「敵」なのではないかと思います。

次にどんな作品が見たいか

このnoteを書いている2022年4月9日時点で、新海監督の次回作『すずめの戸締まり』が11月11日に上映されることが告知されています。

次回作がどのようなものになるか分かりませんが、私個人としては「生者と死者の対話」をテーマとする作品をもう一度見てみたいです。

よく知られているように、新海監督の作品群に共通するテーマの一つは「人と人を隔てるもの」です。「何が」人と人を隔てるかは作品により異なりますが、大きく2つの傾向に分けられるのではないかと思います。

『星のこえ』『雲のむこう、約束の場所』』『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』の4作品は、人と人を隔てる要因(地球と宇宙、現実と夢、引っ越し、年齢…)が異なるものの、いずれも「同一世界上に生きている」点が共通しています。

それに対して、『君の名は』では過去を改変することで大災害による「死」を無かったことにしたように、『天気の子』では圭介が妻と死別し、また「空に消える」という実質的な「死」んだ陽菜を地上に連れ戻すことで「生き返らせた」ように、「生と死による分断」という要素が見られます。そして、「それは”さよなら”を言うための旅。」というキャッチコビーが示すように、「生者と死者の対話」をメインテーマとするのが『星を追う子ども』です。そしてそれは『秒速5センチメートル』で「現代の青春を美麗なアニメーションで描ききった」新海監督が、「2010年代に描かれるべき冒険譚」として挑んだ作品でもあります。

新海監督がインタビューで答えているように、『星を追う子ども』はジブリを意識した作風になっています。

しかしながら、新海監督の意気込みに反して、『星を追う子ども』に対する評価はあまり良くありません。ジブリ的な作品が見たいのであればジブリを見ればいいのであり、劣化ジブリに価値は無いでしょう。このような観点に立てば、『星を追う子ども』は駄作・失敗作であり、「ジブリ的作風は新海監督には向いていない」ことを確認できたのが唯一の成果と言えます。

シュメール神話の『イナンナの冥界下り』以来「死者に会うために地下世界を旅する」ことは物語の古典的テーマであり、これを現代のアニメーションとして表現しようとしたのは意義あることだと思います。だからこそ、『星を追う子ども』が作品として失敗していることが残念でなりません。

過去に、新海監督は『星のこえ』『雲のむこう、約束の場所』で「強く願えばもう一度会うことができる」というファンタジーを描いた後、『秒速5センチメートル』で「遠距離恋愛の難しさ」を描きました。これと同じように、『君の名は』『天気の子』という「死んだ人を蘇らせたい」思いが実現するファンタジーの次は、「大切な人の喪失を受け入れる」作品を作るべきではないでしょうか。

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