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【子育てをきっかけにして、50歳で人生が180度変わった男の話】

人生とは本当に分からないものです。

1970年に生まれた僕は1988年に出生地を離れ、関西の私立大学に入学。

卒業後、やりたいことも就きたい仕事も見つからず、酒とギャンブルとロックバンドの活動に溺れ、十数年の間孤独で定職無しで金欠の最底辺な生活を味わいました。

その頃は自分が人並みに子供を持ち、家庭を持って、あたかも一般の人と同じような生活が送れるなんて夢にも思っていませんでした。


ところが妻と出会い、授かった3人の子供たちは贔屓目ありで全員がとても優秀。長男は中学校の受験を経て、国内でもトップといわれている中高一貫校に進学。

妹も弟もそんな兄をリスペクトしながら、ふんだんに喧嘩もしながら、実に伸び伸びと成長しています。

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温かい家族に囲まれて、僕の人格もそれまでとは真逆となり、生きる目的も明確となり、半ば絶望していた自分の人生にもようやく少しづつ光が射しこんでいきました。

皆さん改めまして、そらまめ隊長と申します。

3人の子供たちをそらまめに例えていますが、もちろん実名は他にきちんとあります。

予め申し上げておきますが、僕は普段子育てや中学受験に携わる親御さんに向けて情報発信しているのですが、このページに関しては特にお役に立てる情報は恐らくございません。ただ、ハンドルネームそらまめ某がどういう人間で、どうして今の活動をするに至ったかをご紹介するページです。

もう一度言いますが、人生は本当に分からないものです。

先ほど生きる目的が明確になったと書きましたが、だからといって自分の存在が何を意味してるのかは、子供の頃と変わらず今だ不明なままです。

こうして自分の生い立ちを改めて書いてみても、因果関係などはいまだにやっぱりよく分かりません。

何か意味があるのか、全くないのかも知れません。とにもかくにもしばらくお付き合い下さいませ。

【どん底への序章】


僕は子供の頃から自分に自惚れていました。

自分がこの世界の王様で、周りにいる親や学校の先生、友達はみんな脇役。すべてが自分中心で動いていて、自分が一番幸せになるものと信じていました。

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ところが現実の僕は、転職続きで麻雀狂いの父と鬱病気味の母が喧嘩ばかりの貧乏な家で育ちます。


イメージしてる世界とはちょっと違うなぁ。
でも、これはきっと神様が僕に試練を与えてくれているに違いない。
人生を面白くするためにわざと遠回りをさせているんだ。

と、都合の良いことばかり考えていました。


ところが、月日が経っても家庭環境は一向に改善されません。

友達が持っているようなおもちゃは買って貰えないし、誕生日会に呼んで貰えることはあっても、家がボロ過ぎて呼んであげることは出来ない。


父は家に帰って来ることは滅多になく、たまに帰って来ても晩御飯のおかずが少ないとか味付けが悪いとかですぐに母親に対してキレる。
父が投げた茶碗や湯呑が飛び交うことは、日常茶飯事でした。

母はいつも父の愚痴をこぼします。
父と結婚したことへの後悔や、家計のやり繰りの大変さについてため息ばかり。家の中には常に暗い空気が澱んでいる様でした。


おかしい。こんな筈はない。
僕は運動も出来るし足も早い、頭も悪くないのに何でこんなに不幸なんだ。

この頃から、どうやら自分がこの世界の主人公という訳でもなさそうだなと薄々勘付いてはいましたが、

だからこそ余計に、貧乏な家から早く抜け出して、夢で描いている主人公のようなカッコイイ自分になりたい。

周りのみんなからすごいと思われたい、どこの○○君は、親戚の○○ちゃんは、と常に自分と比較する母を驚かせたいと、
そんな気持ちが日に日に強くなっていきました。


【そして一人実家を出る】


高校時代


中・高と勉強でも部活動でも特に目立った活躍もなかった僕は、大学受験というビッグイベントを契機に、今度こそ自分の夢を叶えようと思いました。


夢といっても、〇〇になりたいといった具体的なものは何もなく、とにかく周りから認められたい、目立ちたい、すごくなりたい、というボヤっとしたもの。常に人の目を気にして自意識過剰気味だったのは、ずっと貧乏だったことのトラウマのせいかも知れません。

特に行きたい大学もやりたいこともないけど、とりあえず実家から飛び出したい。父と母の喧嘩を目の前でもう2度と見たくない。

そんな思いだけで、名前だけ聞いたことがある実家から離れた地方の大学を選びました。関関同立と呼ばれる関西の私立大学の一角です。

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短い期間でしたがそれなりに勉強も頑張って、受験には見事合格。
私立の学費と仕送りがネックになりましたが、特に喜んでくれた母親が中心になって何とか僕を送り出してくれました。


時代はまだ昭和から平成に変わる頃。最初に住んだアパートは風呂無し、エアコン無し、トイレとキッチンが共同のボロアパート。描いてた夢のキャンパスライフとは程遠い。

母の愚痴を聞かなくて済むようになったのは良いけれど、部屋を友達に見せることさえ恥ずかしいというのは、高校までを過ごした実家での暮らしとほぼ変わっていない。
彼女も欲しいし、学生生活をエンジョイするにはとにかくお金がいる。

入学仕立ての1回生の頃は、アパートから近い大学の図書館で過ごしたり食堂を利用したりしてつつましい毎日を過ごしていたのですが…


そのうち段々とおかしくなります。


自分でも何でそこまでハマってしまったのか分からないのですが、麻雀好きの父親の影響もあったのか、些細なきっかけからパチンコにのめり込んでしまうのです。

最初は大学の授業の合間に行く程度だったのが、少し負けるとその悔しさが忘れられず取り返すまで通う。エアコンの効いた涼しい場所で座ってるだけで儲かるほどパチンコは甘くなく、有り金全部持ってかれることがほとんど。

たまに少し勝ってはその倍ヤラれ、何とかお金を工面して取り返しにいってはまたヤラれ、の繰り返し。あれよあれよと気付いた時には、学生生活の大半をパチンコ屋で費やすことになっていました。

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憧れの風呂・エアコン付きのマンションに引っ越すも家賃は滞納続き。せっかく出来た彼女にまで借金をする始末。頭の中では常にパチンコ台のドラムが回転していて、子供の頃に持っていた夢や希望なんてすっかり忘れてしまってる。

サークルやゼミの同級生との付き合いも希薄になり、苦しくてしんどい思い出を積み重ねるうちにあっという間に卒業の日を迎えてしまいます。


こんなんで卒業なんて絶対無理。
ましてや就職して一生サラリーマンだなんて考えられない。

そんな気持ちを抱えたまま、
しぶしぶ適当に見つけた出版社に就職しました。


【2カ月半で終わった会社員生活】


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大学の卒業式を前に付き合っていた彼女にもフラれ、絶望した気分を抱え、学生生活に未練タラタラの僕は、入社式を迎えてもまったく気持ちが切り替えられません。

ぬるま湯にどっぷりと浸かりきっていたせいか、朝礼の社訓十訓を読むのに皆が大声を張り上げる儀式に驚愕。大した就活もしなかったのに関わらず簡単に入れたその出版社は、後から分かったのですがブラック企業として有名でした。

これじゃまるで軍隊じゃないか。

朝礼の度にどんどん腰が引けていきました。
営業に出てもまるでやる気になれず、公園やマクドナルドで、ただただ時間を浪費する日々。

結局4月に入社して6月の半ば、僅か2カ月半で社会人生活にアッサリと終止符を打ちました。最後は上司に罵られ、住んでいた社員寮からも即刻追い出され、逃げるように荷物をまとめて高校時代の親友宅へ駆け込みました。あの時親友が近くにいなかったらと思うと、ぞっとします。


で、それからどうしたかというと、
学生の時に住んでいた街に戻り、事もあろうにメジャーデビューを目指してバンド活動をすることになるのです。

【一発逆転の夢を目指す】


難民キャンプ


大学時代に音楽サークルに入ってたこともあり、どうにもならない現実によほど追い詰められていたのか、いつの間にか自分で歌を作って歌うことが唯一の心の拠り所になっていました。

僕が作るリアリティあり過ぎの詞やメロディは、パチンコにハマって借金だらけなのを知っている多くの仲間から褒められ(面白がられ)、うっかり自分には才能があると思い込んでしまったのですね。


でも、本当にプロになれるなんて心の底で思っていた訳でもなく、サラリーマンにならないための口実と、いろいろとうまくいかなかった過去を有名になって一気に取り返したいという復讐のような気持ちとがごちゃ混ぜになっていたのだと思います。


案の定、バンド練習やアルバイトの間に時間さえあればパチンコに出掛け、負ける金額もますます大きくなり、奈落の底へ落ちてゆくような感覚がありました。

バンド活動の方は凄腕の仲間と出会い、ライブのたびに多くのお客さんが来てくれたり、インディーズのレコード会社にCDを作って貰えたり、粘り強くやれば何とかなったのかもという瞬間もありましたが、そもそもが消去法の選択だったので、肝心なところで堪え性がないというか、メンバー間でのコミュニケーションとか創作活動とか、ちょっとうまくいかないことがあるとすぐに諦めてしまっていました。


これといった成果も出ないままにどんどん年を取っていく。

お金がなくアルバイトに追われてるうちに、いったい自分は何がしたいのかが見えなくなり、やり切れない思いはすべてパチンコにぶつけられる。

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6~7年の間夢を追いかけて走り続けましたが、

気が付けば30歳近く。
そのままフリーターを続けるにはメンタル的にも限界に近付いていました。

何でもいいからとにかくお金に困らない生活がしたい。
普通の人と同じような毎日が送りたい。


そんな思いが日に日に充満して、ある時を境についにすべて投げ出してしまいました。

その間に鬱病が悪化した母は亡くなり、会社を辞めた頃にお世話になった友人も何の恩返しも出来ないままに病気で亡くし、消費者金融から僕が借りたお金は何百万と膨れ上がり、返せるアテもなく、パチンコとお酒の量だけが増えていきます。

地面に財布が落ちていないかとただひたすら下を見て、駅の雑踏の中を徘徊したり、パチンコ屋に落ちている玉を1個1個拾い集めたりと、あの頃がまさにどん底だったと思います。


【就職⇒結婚】


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もういい。何だかとても疲れてしまった。
多くを望まず、とにかくその日を普通に生きられるようにしよう。

当時働かせて貰っていたバイト先の飲食店で、誘われるがままに社員になることにしました。

バンド活動の傍ら、2年程付き合っていた女性もいました。彼女は僕の夢とか生き方とか無関係なところで、ただ一緒にパチンコに行ったりお酒を飲むのにも付き合ってくれました。

借金はなかなか減りませんでしたが、それでも徐々に生活は安定。ライブハウスで一人で歌うことはあっても、地に足を付けた生活をしようとちゃんと仕事も頑張りました。


そして34歳で結婚。

妻は3年後に無事に男の子を出産しました。
自分がいっぱしの家庭を持てるなんて、少し前までは考えられないことで、

初めて分娩室で一人目の息子の姿を見た時は、自分でも信じられないぐらい涙が止まらず、小さな手を握りながら、まるでダムの水が一斉に放出されるようにいつまでも泣いていました。


その頃から、少しづつ本当に人間らしい自分が戻っていった気がします。

自分のことはもういい。
これからは家族のためだけに生きよう。


息子や妻と毎日触れ合ううちに、いろんなものへの執着が少しづつ取り剝がされて、すると不思議と人生が好転し始めました。

仕事ではどんどん成果が上がり、収入も増えていきます。

いつしか借金は完済し終え、家族で一緒の食卓を囲んだり公園を散歩したり、当たり前のことがこんなに愛おしい貴重なことだったんだと実感しました。
そして3年後には娘を、さらに5年後には弟を授かります。


【50年目の奇跡】


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子供たちがグングン成長するのを近くで見るのは、それはそれは幸せで楽しいものでした。

かといって、全てが順風満帆だったわけではありません。
会社内でのドロドロの派閥争いに巻き込まれ身も心も疲弊したり、元がギャンブル体質なので株式投資に手を出して再び借金するぐらい大損したり、他にも数多くの波乱に満ちた日々でした。

夫婦の関係がギクシャクすることもあったし、反抗期や思春期、小学校受験などを通して子供たちと衝突することもしばしばありました。家族をずっと養っていけるのかという不安、仕事に関しての悩みは今もまだ尽きることはありません。

それでも大きく道を踏み外さなかったのは、若い頃に経験した苦しみがあったから。家族の温もりがいつも僕を癒してくれたから。

そして遂に信じられないことが起きたのです。


息子が中学受験に挑戦し、見事憧れの中学に合格しました。

その中学とは、国内でもトップと言われる関西の超進学校。テレビや雑誌などで何度もその名を耳にし、毎年卒業生の多くが東京大学に入る、受験でも少人数しか入学出来ない中高一貫の男子校。


小学校低学年の頃に、僕と一緒に文化祭を見に行って以来大ファンになり、受験することが息子の大きな目標となっていました。

家族の代表として合格発表を見に行った僕は、我が子の受験番号を見つけた瞬間に、倒れ込むようにして体育館のトイレに駆け込み号泣。

まさか自分の子供がこんな大きな目標を達成出来るなんて。

今までの何十年分の苦労が全部帳消しになるぐらいの感動で、トイレットペーパーが丸ごと1本なくなるまで泣きました。

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絶望的だと思っていた自分の人生に、いったいどうしてそんなことが起きたのでしょう。

自分でも不思議でした。ギャンブル癖など悪い遺伝子が息子に組み込まれていないかと、今でも不安なぐらいなのに。

ひとつ考えられることは、当初ずっと自分の頭の中にあった、

・ 周りから自分がどう見られているのか。
・ 2度と取り戻すことが出来ない過去への執着。

という物差しが、

・ 人より劣ってたっていい。
・ 格好悪くたっていい。

に転換されたということ。要するに、

自分の人生に絶望して夢を諦めた、
ことによって僕の心は緩み、解放され、持っていた本来の自分が発揮されるようになったのです。


失敗した自分を赦し、ありのままの現実を受け入れる。取り返しにいかない。過去にいつまでも執着しない。困ったら誰かに助けて貰えばいい。そして自分に出来ることで今度は誰かを助けてあげればいいんだ。

これは子供が生まれてから気付いたことなんですが、どうやら僕は自分のためより誰か他の人のために頑張ってる時の方が何となく調子が良い。

子供とか身内じゃなくても、親や友人、会社の同僚や上司、見ず知らずの誰か。とにかく、

自分のことを後回しにしている自分が好き。

このことは後の自分の子育てにも大きな影響を与えました。

僕の人生に唯一の意味が生まれたような気がしました。それ以来株式投資やお酒など、ずっと治らなかった悪い癖は少しづつ改善され、会社の人間関係でも争わなくなったのです。

【忌まわしい過去の正体】

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そして僕は恐ろしいことにも気が付きました。

もしかして過去に起こったことはすべて、妻と子供たちに出会い、彼らに存分の愛情を注げるために、さらに生きる上での自分の本当の役割を見つけるためにあったのではないかと。

僕が苦しんできたことは、未来のためにすべて必要不可欠なことだったのです。2度と同じ間違いをしないように。十分なだけの遠回りをさせてくれた。

お陰様で、家族や周りにいる人たちの有難みが身に沁みて分かるようになりました。

過去への執着がなくなり、子育てを通して自分が輝ける法則を知り、それが仕事や投資、夫婦や人間関係にも良い影響を及ぼす。

バラバラだったことが初めてひとつに繋がったのです。


大好きだった半面、憎らしくて仕方なかった両親が、やっと分かったかというような顔で笑っているような気がします。閉店間際のパチンコ店でうなだれていた昔の僕が、恨めしそうにこっちを見ています。

残念ながら子供たちの雄姿を見せられないままに父も母も他界してしまいましたが、今では両親に感謝の気持ちでいっぱいです。

【あとがき】

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3人の子供たちの成長を見ていて、今思うのはやはり人は環境で作られるということです。僕は当初、自分のギャンブル癖やひとつのことに頑張れない性格が子供たちに遺伝していないかとても不安でした。

ところが現時点ではそんな様子は一切感じません。親バカですが、本当に自分の子供かと思うほど聡明で光り輝いています。

人を思いやれる心を持っていて、素直でちゃんと聞く耳も持っている。長男が一流校に入ったからそう見えるのでなく、存在そのものがキラキラと眩しいのです。


出来ればずっと子供のままでいて欲しい。この夢のような生活を妻と共に永遠に続けていきたいと思いますが、当然そんなことは叶いません。僕に出来るのはただ、妻と共に味わう子供たちとのナイス過ぎる経験をブログに書いてずっと残しておくことぐらいです。

そんなわけで、どうか今後ともひとつよろしくお願いします。

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