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子供たちは神様

ご縁があり、「みらせん」という障がいのある中高生向けの就労支援施設に歌いに行った。3年ほど前にも訪れたことのある施設だったが、あれから世の中の状況が変わり、なかなか行くことが叶わなかった。

前に会った子供たちとは、ほとんどが入れ替わってしまったが、施設に車で着くなり、演奏用の機材を進んで下ろしてくれる子、中に入って挨拶をしたら、元気よく「こんにちは」と声をかけてくれる子供たちに心がぱあっと明るくなるのを感じた。改めて挨拶というものの人に与える影響の大きさに気付かされる。

歌を私から一方的に歌うコンサートスタイルもいいが、こういった時に私は一緒に楽しむということ常に大事にしている。今回も出来ることならみんなで一緒に歌いたいと思っていた。

私は「みんなで一緒に歌う」ということをライフワークに決めている。アメリカでゴスペルを歌い始めてからずっとその気持ちは変わっていない。しかし、去年から今年にかけて、そのことがこんなに憚られる世の中になるとは思ってもみなかった。人と会話することもままならない時期に歌うことなんて、悪のようにすら思われた。私の2016年から続けているSING FOR JOYという全国各地のメンバーと一緒に歌うプロジェクトも、しばらくの間中止せざるを得なくなり、オンライン開催でなんとかその輪を繋いできた。

状況が少し落ち着いてきてからも、イベントなどで「ダンスやピアノ演奏などはいいけれど、歌うことはまだちょっと…」ということで流れてしまった案件が山ほどある。その度に頭では理解しているものの、自分の今までしてきたことを否定されるような気持ちが拭えず、心が引き裂かれるような思いだった。

今回も出来ることなら、前回来た時のようにみんなで一緒に歌う喜びを共有したかったが叶わず、なんとか一緒に楽しむ方法はということで、最近私が勉強している「手話」をやってみることにした。

聴こえない人にも音楽を届けたいという想いで全編手話で作成した「はじまりはありがとう」という曲のMVをきっかけに私自身も手話を始めて、その表現の豊かさに魅了され、今では歌うときに積極的に取り入れたりしている。

素直な子供たちは楽しみながらすぐに覚えてくれて、歌を歌えない代わりに一緒に音楽を身体で表現してくれた。

コロナ禍であったからこそ、出会えた表現や価値観もある。

急な雪崩で一つの道を遮断された時に、別の道を見つける力を人間は持ち合わせている。

私の過去の経験談や、手話を教える中で積極的に話しかけてくれる子供たち。純粋に笑う姿や、歌を喜んでくれることに心から嬉しい気持ちになった。

嬉しいという文字は、へん(偏)である女「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と、つくり(旁)である喜「壁に掛けた打楽器の象形と、口の象形(「祈りの言葉」の意味)」(「楽器を打ち神を祭り、神を楽しませる」、神が「喜ぶ」の意味)から、女が「よろこぶ」、「うれしい」を意味するのだそうだ。

私にとってはまるで彼らが神様のようにも見えた。

その時間、紛れもなく自分の生きがいを肯定してくれて、光を照らしてくれる存在であったのだ。