見出し画像

サラダ取り分ける系女子になりたくない【自意識過剰1】

「サラダ取り分ける系女子」になりたくない。

私気が利くでしょ、とアピールしているのだと思われたくない。そうは思われなくても、取り分けたことを褒められることすら嫌だ。

だいぶ、拗らせている。
この拗らせ、なんと昨日突発的に発生したのである。


昨日のできごと

忘年会シーズンである。
ビバ飲み会シーズン。最高である。

飲み会があまりない私の研究室でも、忘年会が開催された。やったぜやったぜ。

寒空の中、軽い足取りで店に到着。席に案内されると、既に料理が用意されていた。席に座るなり、私の目の前には3,4人前のシーザーサラダ。

(これ、うちが取り分けるヤツだよなぁ…)

あのウキウキは何処へやら、突然のブルー。

大好きな飲み会で、その高揚感を抑えてしまうくらいの憂鬱。どうしても「サラダを取り分ける系女子」になりたくないのである。この言葉に含まれるような悪意や馬鹿にする意図なしに、純粋に「やるやん、ありがとう」と褒められることすら怖い。

別に、サラダじゃなければ躊躇なく取り分けられるのだ。枝豆や唐揚げなら、もう喜んで皆様に行き渡るように取り分けるのである。ただ、ひたすらに「サラダ取り分ける系女子」という典型的なレッテルを貼られるのが怖いのだ。

なんなら、サラダでも今までは躊躇なく取り分けていた(断じてアピールではないんです涙)。今日の私は、私自身が戸惑うくらいの変わりよう。急に拗らせてしまった理由は、おそらく2つ。1つ目が、1ヶ月前に友人から「飲み会で誰がサラダを取り分けるか、数人で牽制しあう行為が疲れる」という話をきいたこと。2つ目は、ここ最近は同期や後輩としか飲んでおらず、久しぶりに先輩(取り分けたりしたらすごく褒めてくれる方々)と飲んだことだ。

今までサラダの取り分けをためらったことがなかったが、2つの要因が重なり、今日は急に過剰反応してしまった。取り分けた後に今まで言ってもらっていた「ありがとう」「気が効くじゃん」などの言葉の裏に、「アピールなの?」「お前がやるなよ」などの悪意が潜んでいるのではないかと急に怖くなりはじめたのだ。(考え過ぎ)




話は忘年会に戻る。目の前のシーザーサラダに怯える私。


気にしすぎの極み


位置的に、確実に我である。我が取り分ける以外ないのである。
とりあえず、乾杯までは猶予がある。いったん考えるのをやめた。

しばしの談笑。
しかし10分後。参加者が集合し、遂に、乾杯。

いつも以上ビールをゆっくり味わう私。
しかし、いつまでも誤魔化せるわけではない。
泣く泣くジョッキを置き、いよいよ手持ち無沙汰な私。

(…嫌だなぁ、嫌だなぁ、誰か取り分けてくれ!!)

何かしら手を動かしたい私は、サラダ以外に取り分けるものを必死に探した。
しかし、なかった。
焦りが、増して、増して増して、増していく。

(やばい、やばい!!何かしないと!!!!)





パクッ










こいつ、枝豆食っちゃったよッ!!!


さまぁ〜ず三村


先輩方が鍋に火をつけたり作業をしてくださる中、誰よりも早く料理に手をつけてしまった。

気が利かなくて、食い意地張ってるヤツだって思われるじゃねえかッ!!!!

まだ「サラダ取り分け系女子」のほうがマシだよ!!!


結局、斜め前の同期が一生懸命腕を伸ばして取り分けてくれましたとさ。ちゃんちゃん。




P.S. 「サラダ取り分け系女子」が悪というか、合コンみたいな場で気遣いが過剰なのが悪印象なのかも。何事も過剰がよくないのね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?