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「自分らしさ」を探すのはもうやめにしよう。とも言い切れない。とも言い切れない(ぺこぱ風)

※キタバの脳内
※答えはなく、問いが問いを呼んでいる文章です。

キタバです。風邪になってしまいました。2週間ごとに風邪になっているので、私の体は外にいる病原体に喧嘩を売るのが得意なのかもしれません。
そんなことは置いといて、、、

最近、色んな本を読みながら、少しずつ繋がってきたので、アウトプットします。

①なぜ今「自分らしさ」が謳われているのだろうか?

私たちは、自由であることで囚われている現状があると言う。

『現代ドイツの哲学者アクセル・ホネットが言うところの、「自由であることの苦しみ」を抱えてしまっているのだ。』
(自由の相互承認ー人間社会を「希望」に紡ぐー(上)苫野一徳 詩想舎 2017年)

今や「自由」が獲得され、どのような生き方を選んでも、ある程度の範囲で良しとされる時代。昔言われていた、いい大学入って、いい企業に行って、お金持ちになって、結婚して…みたいなのが薄くなった。結果、「生きたいように生きていいよ」と告げられ、逆にどう生きたらいいのか身動きが取れない状況がある。

少し前までには、自分のアイデンティティや所属意識を感じさせる「肩書き」があったように感じる。医師、先生、営業などなど、でも肩書きが簡単になくなる現状もある。私も教員を離れたとき、肩書きを失い、所属できないのではないかという恐怖を感じたことがある。

・レールのようなものを失った「自由であることの苦しみ」
・「肩書き」の喪失

外側から自己を規定できるものが少なくなり、内側から自己を規定する必要が生まれてきた。その結果、「自分らしさ」「自己分析」」「自己表現」などの言葉が強く言われるようになったのかなぁと思う。

②「自分らしさ」とは何なのか?

◯まず、自分なりの経験から言葉を定義してみる。
「自分らしさ」→自分自身の内側の欲求から選択する複数の集合体

◯次に辞書的な意味で、「自分らしさ」という曖昧な言葉を詳しくしてみる。

自分→「その人自身」(goo国語辞書)
〜らしい→「…にふさわしい様子である」(コトバンク)

自分らしい→「その人自身にふさわしい様子である。」

もう少し詳しくしていく。

ふさわしい→「つり合っている、ぴったりだ」(コトバンク)
様子→「外から見てわかる物事のありさま」(goo国語辞書)

自分らしい→「その人自身に‘’つり合っている‘’ ‘’外から見てわかるありさま‘’である」

ここで「自分らしさ」に、条件が生まれる。
①何かしらにおいて、今の自分につり合っていること
②外からの評価であること

◯自分の定義と辞書的な定義のギャップ
「自分らしい」という言葉の中に、「自分の欲求を純粋に!表現しよう!」みたいなニュアンスを感じていたが、辞書的な意味ではないことに気づく。

③「自分らしさを表現しなければいけない」という苦しみ

今、「自分とは誰なのか?」「自分を知らなければいけない」という風潮があるように感じる。私も2019年は「自分とは誰そ?」(すえひろがりず風)を考えてきた。自己分析もたくさんしてきました。

小説家の村上春樹さんは、次のように述べています。

『(前略)まず自分を知りなさい。自分のアイデンティティー確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。』

(リアリティ・プラス クリエイティブ・ラーニングー創造社会の学びと教育 井庭崇・鈴木寛・岩瀬直樹・今井むつみ・市川力 慶應義塾大学出版会 2019)(引用の引用で申し訳ありません)

クリエイティブ・ラーニングでは、そのあと「内と外の円環運動」の観点から「自己表現」について見直していきます。(ここ私にとって超絶に面白いところです)

◯ここで、辞書的な言葉の定義に戻る。

「自分らしさを表現しなければいけない。」
というのは、なんとも不思議な言葉にも感じる。

自分らしさとは、最終的なところ自分で規定することはできない。あくまでも、外からの評価で「〜らしい」という評価になる。

自分では評価できないところを、自分で表現しなければいけないのは、一言でいうと無理ゲーな気がする。

④改めて、自分らしさを考えてみる(今日は時間切れ)

時間切れで書けませんでした、、、

⑤ここまでの思考で生まれた問い&気づき

・自分らしさがなぜ謳われるようになったかは、まだ説明し切れていないように感じる。色んな文献を探してみたい。
・「自由からの苦しみ」に関して、苫野さんはどう考えられていたっけ、もう一回読もう。
・「〜らしさ」には、その人自身につり合っているというニュアンスがある。「男らしい、女らしい」という言葉に違和感を感じるのは、その見えない「〜らしさ」から抜け出してはいけないというメッセージを伝えているのではないかと感じた。「〜らしい」はその人を盛大に認めることでもあり、逆にそこから抜け出さないようにというメッセージも伝えかねない。
・自分らしさの規定は、自分のぴったりを自分で決めてしまっているのかもしれない。すると、その後の成長を阻害する要因になりかねない。

・あなたの「自分らしさ」はなんですか?と聞かずに、「あなたは、あるグループでどんな風に見られたり、どんな性格だと思われていますか?」と聞いた方が親切な気がする。
・しかし、それは「あるグループ」での話で、グループや人が変われば変容することも念頭に置きたい。
・自己分析は、玉ねぎの皮むきと同じことなのかもしれない。すると、自己分析の意味を問い直す必要が生まれてくる。

・今のところ、自分というものが分かるのは、20代そこそこで分かるものではないのかも知れない。自分の好きなこと、自分が探求したいこと、興味の持ったことをひたすら探求、構築し続ける中で、見つかっていくのかもしれない。その数多くのインプット、アウトプットと内省をし続ける中で、ふとよぎる自分の特徴を、ただただ静観し、「私こんなことよく思っているなぁ」くらいで流していく感じなんだろうか。でも、それすらも気づきながらも、つぎの先へ行くために、執着しすぎない程度に持つ感じなんだろうか。
・次に、この思考の流れをイエナプランにも繋げて考えてみたい。

はい。長文でした。疲れました(笑)

おやすみです‼️

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