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《2013年はDance Fanfare Kyotoをはじめた年です》

これまでで一番大変だった現場はなんですか?」と質問されたら真っ先に答えが出る。「Dance Fanfare Kyotoです。」これは正真正銘の大仕事だった。

気がつくと30歳になっていた。次の創作や出演現場のオファーが激減していた。20代で結果がだせなかった証拠だと感じた。
ダンスを辞めようという気持ちもあったが、20代の時に周囲の舞台関係者から過度な愛情とも言える期待や支援を大いに受けてきた自覚がその思いを止まらせた。そしてなにより「Dance Fanfare Kyoto」があったからだ。
前年の「We dance京都」の興奮状態のままで「やるで、やるで、やらなあかん、いまや。」とセゾン文化財団の創造環境3年間の長期助成に申請して採択された知らせが来ていた。

自分の手で新しくアーティストの出会いの場をつくること。そのことに躍起になった。
それは同世代のダンサー達が「関西は作品の発表機会がない」「ダンスが仕事にならへん」と辞めたり、東京に行く様を見て、関西で誰よりも創作のチャンスを手にしたことで、同世代のアーティストのチャンスを奪ってきたことを自覚した私のなんらかの償いの感覚もあったかもしれない。

私自身は20代はダンスの創作をするにあたり多くの支援を受けた自覚があった。20代は若手だし、制作費やギャランティは安いんだろうなと思うことは多々あったけど、関西にいて創作の現場に困ることなどなかった。
けど、30歳になった時点で次の活動に繋げられる結果がでなかった。それには力不足を実感したし、なにより作ることに疲れてしまっていた。ただ、自分で作品を作れなかったら、他人に作ってもらえばいいと開き直る気持ちもあった。ディレクション自体を振付という大きな枠組みでとらえたら、これまでの経験もつなげていけるし、「Dance Fanfare Kyoto」はやらなければならないと使命感に燃えていた。大ごとになるのはわかっていたが、なによりダンスがどうしても好きなのだ。面白いダンスを見たいという欲望が誰よりも強くあった。ダンスを信じたい、人間の身体の表現を信じたい。今後3年間は「Dance Fanfare Kyoto」に精一杯に打ち込む心構えをして、ダンスカンパニーKIKIKIKIKIKIでの創作は休止した。

しかし「Dance Fanfare Kyoto」をやりたいが、右も左もわからない状態になっていた。「Take a chance project 」でお世話になったアイホールのディレクター(当時)の小倉さんにすがるように相談したら、同世代の人を繋げてくれた。そこから実行委員会が生まれた。
やりたいこと、やるべきことはどんどんと膨らんでいき、セゾンの助成金だけでは予算が足りないので「申し訳ありません」「ありがとうございます」「よろしくお願いします」を散々口にしながら、京都で至る所で頭をさげ協力をお願いして準備に入った。肝心のプログラム内容としては、もうダンスの現場の人だけではもう面白いダンスを作れないんじゃないかと、疑いもあったから、「Dance Fanfare Kyoto」はできるだけ多分野のアーティストと世代の異なる人脈を巻き込むべきだと思って考えた。

「Dance Fanfare Kyoto」は2013年~2015年の3年間で3回実施、17企画・27作品、100名以上のアーティストが参加し、のべ1800名以上の観客に見届けて頂いた。この企画を立ち上げて培ったことが今も繋がっている。

そんな「Dance Fanfare Kyoto」のWebアーカイブは読み応えあります。是非覗いてください。http://dancefanfarekyoto.info  
そして今、2021年に「Dance Fanfare Kyoto」アーカイブ冊子も準備しています。もうあんな大変すぎる企画はできないから、あの3年間の記録をちゃんと残そうと思っています。正真正銘の大仕事はまだ終わってないので、もう少しお付き合いください。

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2013-2015年 Dance Fanfare Kyoto vol.01-vol3のフライヤー 宣伝美術:岡田将充


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2021年1月Dance Fanfare Kyoto vol.4 [アーカイブ談義]開催。5年の歳月を経てDance Fanfare Kyotoアーカイブを冊子化するプロジェクトを現在進行中。

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