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寄稿/多田淳之介 《きたまりとのこと》

初めてきたまりを知ったのは2008年こまばアゴラ劇場での木ノ下歌舞伎舞踊公演『娘道成寺』だったと思う。何しろ12年前だ、とにかく大きな縄に捕まってブランブランしている女性というのがきたまりの第一印象だった、と思う。そしてその一年後の2009年7月、神戸アートビレッジセンターの喫煙所でカラフルな格好をした小柄な女性に突然話しかけられたのがきたまりとのファーストコンタクトだった。

ちょうどその年は我々二人ともセゾン文化財団のフェローシップに選んでもらった年で、彼女の第一声も「多田さんですよね、セゾンの助成金って何に使います?」だったんじゃないかな。そのまま彼女が助成金でトーク企画を毎月開催するらしいことを聞き、さらにその場でそのトークに出てくれないかというオファーも受け、翌2010年にトーク企画「最近どない?」に出る、だけにはとどまらず、同年神戸アートビレッジセンターで一緒に作品を作ることにもなり、あれよあれよと言う間に気がつけば10年、演出家、振付家、ダンサー、プロデューサー、選曲、様々な立場や関係で12作品くらい(多分)共にしてきたようだ。

年に1作品以上のペースで10年間……初めて本格的にコンテンポラリーダンサーと作品作りをしたのもきたまりが初めてで、なんならきたまりを通じてコンテンポラリーダンスに出会ったと言っても過言では無いかもしれない。そもそも出会った時から京都のダンスシーンをなんとかするんだと言っていて、でも当時のきたまりはまだ20代で『女生徒』でコンテンポラリーダンス界に躍り出て、さぁ振付家としてやっていくぞっていう時期に「このダンスシーンでどうやっていくか」じゃなくて「このダンスシーンなんとかするんだ」っていう発想してたのはすごいと思う。すごい生意気だったし面白かったし何よりシンパシーを感じた。

実際にWe danceの京都開催や、Dance Fanfare Kyotoを立ち上げたり、問題意識を具体的に形にしていくのを時に作品で参画しながら眺めていたけど、ダンスに携わる人たちの問題意識は演劇をやってる側から見るとやはり新鮮で、当時もかなり刺激を受けていたと思う。個人的には海外の演劇のアーティストと仕事するよりも、国内のダンスのアーティストと仕事する時の方が異文化交流だと感じることも多いし、なによりダンスやダンサーたちが演劇や俳優たちとはなかなかできないことを軽々とやってのける爽快感(多分お互い様)、というのはコンテンポラリーダンスと関わり続けているモチベーションで、きたまりともリフレクションを楽しめる関係であったから続いてきたのだと思う。

演劇とダンスで言えば、我々の代表作ともいえる『RE/PLAY Dance Edit.』もWe dance京都2012での「演劇とダンス/身体性の交換」という企画がスタートだった。プログラムディレクターきたまりのつもりとしては、京都のダンサーたちに普段絶対やらないことをやらせたいという思惑があったようで、結果その通りの公演になったのだが、元・立誠小学校の自彊室で1ステージのみ上演された初演は、その後2019年まで我々二人の大きな目標になるほどの、いわば奇跡の公演だった。

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2012年2月『RE/PLAY Dance Edit.』元・立誠小学校 自彊室 「We dance京都2012」(演劇とダンス/身体性の交換)

『RE/PLAY Dance Edit.』には2014年からはきたまりはダンサーとしても出演し、2019年まで国内3都市、海外3都市で現地のダンサーを加えた各都市のバージョンを6年かけて上演し続け、初演からは想像がつかないくらいの奥行きを持った作品に成長した。さすがにこれだけ長い期間に様々な都市で作ったのでそれぞれ印象的な事はあったが、なかでも2018年の京都バージョンでのきたまりは特に印象的だった。そもそも作品としては東京都からの3年の長期助成を受けて東南アジアでのプロジェクトを展開している最中だったにも関わらず、きたまりのもう一度京都でやりたいという思いで実現した公演だった。

オーディションをするまではきたまりは出演しない予定で、自分より他のダンサーにこの作品に出てほしいという思いもあって決めた公演だったが、オーディションが終わり選考会の口火を切ったのがきたまりの「私、出ます」の一言だった。各地でのオーディションの選考でも演出家の自分が単独で決めるのではなく、きたまり、プロデューサー、現地の制作パートナーの意見も聞いて決めてはいたけど、あそこまできたまりが自分の意思をはっきり言ったのは後にも先にもあの時だけだったんじゃないかな。京都での上演を決め、ダンサーたちにオーディションを薦め、結果自分が出るという覚悟と共に、京都のダンスシーンに対する彼女の変わらない並々ならぬ思いを感じた。よくよく考えてみると、どの国でどのダンサーと作品を作っていても、彼女は常に京都に何を持って帰れるかを考えていたのだと思う。

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2017年11月『RE/PLAY Dance Edit.』京都芸術センター 講堂 撮影:前谷開「KAC Performing Arts Program 2017」

『RE/PLAY Dance Edit.』プロジェクトは2019年の東京バージョンで一旦の終了となったが、果たして我々は、京都初演で見た奇跡を再び見ることができたのだろうか?もちろん思い当たる瞬間はいくつかある、あのダンサーのあの公演でのあの瞬間というのも具体的にある。ただこの8年で我々の目も変わってしまったのかもしれない。かなり贅沢になったことは間違いないだろう。同じものを今見てもあの感動は味わえないのかもしれない。ただ、あの瞬間奮い立ち、まだその興奮はおさまっていない。そろそろあてのないこの原稿を終わりにするために今後のきたまりとのことを少し考えてみると、おそらく折に触れて何かをするのだろう(この原稿の依頼が来るように)とは思う。またあの奇跡の瞬間を目指すということは無いかもしれない。あの時はダンスと演劇によって、ダンスも演劇も完全にふっ飛ばす踊りに興奮した。今我々は何に興奮するだろう。そもそも興奮など必要なのだろうか。実は自分も来年演出家として20周年を迎える。もはや気になることは後進に何を残せるかだ。きたまりと一緒にやるとしたらそういう事なのかもしれないし、やっぱりゴリゴリのダンス×演劇火花バッチバチの作品かもしれない。

どのみちきたまりは京都のためにダンスのために活動を続けている、少なくとも自分の知っている10年間そこは全くブレていない。世界に誇って良い活動だと思う。20周年おめでとうございます。これからも京都のきたまり、世界のきたまりを楽しみにしています。


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多田淳之介                            1976生まれ。2001年から「東京デスロック」を主宰。古典、現代戯曲、ダンス、パフォーマンス作品まで、俳優の身体、観客、劇場空間を含めた、 現前=現象にフォーカスした作品を発表。既成の演劇の枠組みに囚われない演出方法は、公演毎に話題を呼び、国内外の公演、共同制作、ワークショプ等多数。2010年から富士見市民文化会館キラリふじみ芸術監督に就任、3期9年務める。2013年に日韓共同製作作品『カルメギ』に於いて韓国で最も権威のある東亜演劇賞演出賞を外国人として初受賞。東京芸術祭APAFアジア舞台芸術ファームディレクター。

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