見出し画像

《2016年は黒沢美香と多田淳之介のことを》

黒沢美香と多田淳之介は似ている。けど、そんなこと言うのはきっと私くらいだろう。

2012年「We dance京都」のラストを飾る演目は多田淳之介演出【RE/PLAY(dance edit)】、2013年「Dance Fanfare Kyoto」のオープニングを飾る演目は黒沢美香コンセプト【lonely woman】をディレクションした。プログラムを考える際にすぐに顔を浮かべて連絡した。わざわざ関東から呼びよせる必要があった。

両者は私にとっては火種を送ってくれるような、刺激をあたえてくれる存在だ。あちらからお声がかかることもあるが、どちらかというと私がグイグイと声をかけてきた。その都度、絶対断らせない、いや断るわけがない。無自覚に挑発しながら京都に呼びよせた。
演出家と舞踊家、ふたりの作品の作り方は違う。だけど共通点として出演者の当事者性を引き出しながら、身体、個人、存在を問い、そして、ダンスを問う。その眼差しはとても似ている。両者のダンス感は異なる。もちろん人柄も違う。だけど表現に対する態度を見極める厳しい眼差しや言葉、そして表現が現れた時の心弾んだ様子を隠せない所が、どうも重なる。

なんで2016年から二人のことを書こうかと思ったかというと、この年に2016月2月【RE/PLAY(dance edit)】演出:多田淳之介(72-13/ シンガポール)と、11月ダンスボックス20周年記念「THE PARTY」振付:黒沢美香 ( Art Theater dB 神戸)の記憶が深いからだ。

画像3

2012年2月「RE/PLAY Dance Edit.」元・立誠小学校 自彊室 「We dance京都2012」

1月にアトリエ劇研でマーラー交響曲シリーズ第1弾【TITAN】を上演し終え、直後の2月多田さんとのアジア各地のダンサーとの3ヶ年計画のコラボレーション【RE/PLAY(dance edit)】が始まりシンガポールにいた。そのあとのカンボジア、フィリピン公演を思い返すと、シンガポールは比較的いろんなことが上手く進んでいたが、海外で初めてリハーサルを進める中、多田さんとダンサーとのやり取りでどうにも言葉では伝わりにくいことに直面した。通訳を介して言葉で振付を伝える多田さんの役割が海外に来ると上手く伝わらないことを補填する、ここから3年アジア各地でコラボレーションするための自分の役割に鋭さが必要になった。それは共演者に演出家の意図を身体で伝える為の、より明確なダンスの鋭さだ。まだまだ自分を追いつめないといけないのかとため息が出た。同時に2012年京都に多田さんを呼びよせてできた【RE/PLAY(dance edit)】が続いていくことへの胸の高鳴り、そして締め付けられる思いがあった。高鳴りは国際共同制作に、締め付けは各地でオーディションをしてダンサーを選んでいくことに。2012年の初演は私が多田さんとクリエイションできそうなダンサーを独断でディレクションしたけど、その後の横浜・シンガポール・カンボジア・京都・フィリピンはオーディションをした。選べなかったけど忘れられないダンサーはいっぱいいる。どのオーディションも脳裏に焼きついてはなれない。人間の踊る欲望は時にこわいほど強い。

これまでの【RE/PLAY(dance edit)】の歩みはこちらをご覧下さい。  【RE/PLAY(dance edit)】HP http://www.wedance.jp/replay/
急な坂スタジオアーカイブ https://kyunasaka.jp/archives/2601
【RE/PLAY(dance edit)】に見る、国を越えたダンス共同制作の形」/アーツカウンシル東京「東京芸術文化創造発信助成【長期助成プログラム】」活動報告会レポート
前編 https://artscouncil-tokyo.jp/ja/blog/44039/
後編 https://artscouncil-tokyo.jp/ja/blog/44461/

画像3

「RE/PLAY Dance Edit」 presented by TheatreWorks (Singapore)
in collaboration with Offsite Dance Project Photo credit: LAW Kian Yan

そして、その年の11月の黒沢美香とのクリエイションは忘れられない。これが美香さんとの最後のクリエイションだった。神戸の新長田のダンスボックスで再会した美香さんは困難な身体だった。もうあまり長くは生きられないということを本人が自覚しているし、周りも察している状態で、それでも稽古に入ると、いつもどおりに舞台上に厳しい声を投げかける黒沢美香が健在だった。
その声だけ聞くと、まだまだ作品を作り続ける、これからも一緒に作れると言う気持ちにもなるが、でもやっぱり、もしかして、もしかして最後なのかもしれないと、歯をくいしばる様な瞬間が幾度もあった。ああ、奇跡を信じるしかない、まだまだ一緒にクリエイションを共にできることを願う。願いながら作り、願いながら踊る。想いだけが強くなると踊りは崩れる。そんな本番だった。そんな本番後に美香さんは出演者をたしなめる様な言葉を残し横浜に戻り、その2週間後に他界した。
美香さんが亡くなった日、たまたま私は東京にいた。訃報を聞いて横浜に向かって、初めて黒沢美香の稽古場に足を運んだ。これまで幾度か横浜にレッスンに行こうと思ったことは多々あったが、行くと沼にハマりそうだから行かなかったのだ。覚悟はしていたが、すごかった。踊りの熱が空間に充満してる、稽古場。こわい。と思った。でも来てしまったから受け入れないといけないのかと観念した。

ダンスは伝えるものだ。その対象は様々だが、伝える対象はどんどん遠く深くなる。対象の先に底が見えなくなると、ダンスが踊りになる。踊りはこわい、本当にこわい。

画像1

2013年7月「lonely woman」元・立誠小学校 自彊室「Dance Fanfare Kyoto vol.1」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?