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旅が教えてくれたこと (3) 1983年夏、ニューヨーク

■その2

 6月に落ち着いたジョージ・ワシントン・ホテルの安部屋にはエアコンがなく、その年の夏が連日華氏100度を越える異常な暑さだったこともあって、7月末にはどうにも耐えられない状況となった。そこで8月に入るとすぐに、同じく長期滞在者用の安ホテル、タイムズスクエア・モーターホテル(Times Square Motor Hotel)に空室を見つけて移った。
 
 タイムズスクエア・モーターホテルは43 St.と8番街の角にあり、タイムズスクエアは歩いて2分というロケーション。1922年に建った古いホテルで、その建物はロバート・デ・ニーロ主演の「タクシードライバー」にも登場する。音がうるさいエアコンが付いた8階の部屋は、ボロかったけどやたらと広く、巨大なベッドと白黒テレビが置いてあった。北に面した窓からは、劇場街が見えた。安ホテルにはあまりないバスタブがあったのは助かった。ゴキブリが多く、部屋に食べ残しを放置しておくと、翌朝にはゴキブリがたかっていた。とはいえ、このロケーションと広さでマンスリーで当時は500ドル程度で泊まれたのだから文句はない。それにしても、ほんの30年ちょっと前には、今や1泊200ドルの予算ですらホテルを探すのが難しいタイムズスクエア近辺にこんな安宿があったのだから隔世の感がある。
 
 ホテルの8番外沿いの角にはドーナツショップが入っていて、早朝から近所の年寄りが集まって、甘くて大きなドーナツを食べながらコーヒーを飲んでいた。
 タイムズスクエア・モーターホテルには、ロビーにつながる小さなデリがあった。部屋にはキッチンがなかったので、そのデリで毎日のように焼いたチキンをライ麦パンに挟んでもらって1ドル、それに35セントのミラービール1缶を買って夕食にしていたのを思い出す。このローストチキンは胸肉1枚分ぐらい大きく、塩コショウが効いていて旨かった。半年弱の滞在中に、100回以上は食べただろうか…
 1階のロビーの隅の半地下にコインランドリーがあって、よく利用していた。クォーター(25セントコイン)を3枚並べて押し込むと、巨大なドラム型の洗濯機が動き出す。洗剤の箱を持っていると、居合わせた他の利用客に、よく「洗剤を貸してくれ」と言われた。一度この洗濯部屋で缶ビールを飲みながら洗濯していたら、たまたまロビーの警備員に見つかってビールを取り上げられ捨てられたことがある。公共の場所での飲酒に関しては、ニューヨークは特に厳しかった。
 
 8番街の斜め向かい側の角にギリシャのファーストフード「スヴァラキ」の店があって、時々買いに行った。他に、8番街の北側沿いには安いダイナーがたくさんあって、食事には困らなかった。今では信じられないが、卵の調理法とパンの種類を選べる朝食が1.99ドル、ランチが2~3ドルで食べられるダイナーが何軒もあった。
 8番街の東側を1ブロックほど北へ歩くとMILFORD PLAZAというホテルがあった。ここは最近はRow NYCと名前が変わってきれいになったが、当時はかなり寂れた感じの中級ホテルで、よくマイナーな航空会社の客室乗務員が宿泊していた。ロビーの地下に枯れた雰囲気の安いバーがあって時々飲んでいたんだけれど、東欧系の航空会社のスチュワーデスのグループが話しかけてきて一緒に騒いだことが何度かあって、今ではいい思い出だ。
 
 ジョージ・ワシントン・ホテルに居た時には、街中や取材先で出会う人としか話をしない孤独な生活だったが、タイムズスクエア・モーターホテルに移ってから、毎日話す知り合いが何人かできた。その1人が毎日のように通ったデリのおじさんだ。見かけるといつも声をかけてきたし、夕食を買いに行くと「何の仕事をしてるんだ?」「今日はどこへ行ってきた?」と話しかけてくる。客がいない暇な時に行くと、しばらく話し相手をしないと帰してくれないことがあった。そして、もう1人話すようになったのが隣の部屋の住人だ。隣の部屋には、年齢は不祥だがおそらく60歳ぐらいのおばあさんが1人で住んでいた。事情はわからないが、もう何年もその部屋に住んでいるらしく、廊下で会うたびに何かしら話しかけてくるようになった。ある日、夕食を買ってきて部屋に入ろうとカギをガチャガチャやっていたら、隣の部屋のドアが空いておばあさんが顔を出し部屋に来いというので、おばあさんと話しながらサンドイッチを食べ、一緒にビールを飲んだりした。ただ、このおばあさんは、娘がどこかに嫁いでいるということ以外、自分のこと、家族のことはほとんど何も話さなかった。だから、その部屋に1人で住んでいた理由は最後までわからなかった。
 そんなこともありながら、やはり基本的には「異文化の中の孤独な日常」を楽しんでいたのかもしれない。
 
 タイムズスクエア・モーターホテルのある43 St.をハドソン川の方へ歩き、9番街を超えたあたりに大きな郵便局があった。その周辺、9番街を中心とするミッドタウン・ウエストは通称「ヘルズキッチン」として知られているところで、往年の「悪の巣窟」的な雰囲気はなかったものの、1983年には、まだまだ荒れたアパートメントや得体の知れない店が入ったビルなどが多かった。今でも、大好きなローレンス・ブロックのミステリーを読むたびに、あのあたりの雰囲気を思い出す。いずれにしても、9番街より西側にはまず行くことはなかった。
 
 昼夜を問わず喧騒に溢れたタイムズスクエア近辺は、当時も今もあまりイメージは変わらない。ただ、きれいという感じはなく、いつも雑然としている場所だった。ガラクタに近いものも含めて日用品に近い商品まで売っている「電気屋」「カメラ屋」と、「インチキ身分証明書屋」がやたらと多かったのを思い出す。ニューヨークタイムスの本社の裏側には、刷り上った新聞や印刷用紙を運ぶコンテナのような巨大なトラックが出入りしていた。
 42 St.は、ブロードウェイと8番街の間の2ブロックにXXX映画館やストリップ、覗き屋、エロ下着ショップ、ドラッグの吸引具を売る店などが並んでいた。8番街も、42 St.からセントラルパーク近くまでポルノ系の店が立ち並んでいた。今のマンハッタンでは想像もできない光景だった。タイムズスクエアの近くやブロードウェイの劇場街ですら、ちょっと通りを奥に入れば、深夜には「スモーク、スモーク」と声を掛けるドラッグの売人が徘徊していた。紙袋で隠しながら道端でビールを飲んでいるやつもたくさんいた。こんな猥雑な雰囲気が嫌いではなく、暑くて寝苦しい夜中によく歩きまわっていた。
 今思い出せば、街角で「金を出せ」と言われたことも何度かあった。「ない」と言ったり、ポケットの中の20ドル札を渡したりしていたが、当時は別に怖いとも思わなかった。まあ、1983年のニューヨークでロワー・マンハッタン、アルファベットアベニューあたりを夜ごとうろつき、大きなトラブルも無く生きて帰ってきたのだから、単に運がよかっただけだろう。
 
 8番街をちょっと南へ下ると、巨大なグレイハウンドバスがひっきりなしに出入りするポートオーソリティ・バスターミナル(Port Authority Bus Terminal)がある。当時は、深夜になると周囲の暗がりには着飾ったゲイの娼婦が立ち並び、異様な雰囲気だった。彼(彼女?)達からよく声を掛けられたが、ちょっと怖かった。
 バスターミナルの1階の隅に小さなバーがあった。中年のやる気のなさそうなバーテンがいたが、初めて行った時に僕が注文したモヒートを覚えていて、2度目に行ったら注文もしないのに、にやりと笑ってモヒートを作り出した。大きな荷物を持って田舎から出てきた旅行者がバスターミナルの構内をうろうろしているのを飲みながら眺めているのが楽しくて、よく通った店だ。時々バーテンが声を掛けてくれ、注文してもいないナッツを出してくれたりした。
 ニューヨークとグレイハウンドバスといえば、映画「真夜中のカーボーイ」を思い出す。映画の冒頭近くの、田舎から出てきたジョン・ボイドが乗ったバスの窓からニューヨークの摩天楼が見えてくるシーン、そして映画のラストシーンでマイアミに向かうバスの中でダスティン・ホフマンがジョン・ボイドにもたれかかって死んでいくシーンは、とても印象的だった。僕もその年の冬にいったんニューヨークを出る時に、このターミナルからバスでマイアミへと向かった。
 
 ちょっと書いておきたいデパートの話がある。この時に最初に泊まったニューヨーク・スタットラーの近く、7番街にはマンハッタンで最大規模のデパート「メイシーズ(Macy's)」があった。まあ、今では高級デパートではなく、ブルーミングデール(Bloomingdale's)などと較べても明らかに庶民のデパートだ。それに最大規模とは言っても、1983年当時既に店内各所の老朽化が進み、なんとなくうらぶれたデパートだった。しかし書きたいのはこのメイシーズについてはなく、当時メイシーズの近く、6番街にあったもう1つのデパート、今は無き「ギンベル・ブラザーズ(Gimbel Brothers)」(通称Gimbels:ギンベルズ)についてだ。
 ギンベルズの創業は1887年、そして1987年に閉店した、100年の歴史を持つデパートだった。大ヒットした1994年のアメリカ映画「三十四丁目の奇蹟」が、1947年の同名映画のリメイク版であることはよく知られているが、この1947年版の「三十四丁目の奇蹟」で、舞台となるメイシーズの買収を目的とするライバルデパートとして登場するのがギンベルズである。
 1ブロックしか離れていない、すぐ近くにあった両デパートだが、開業当初はメイシーズが高所得者をターゲットとしており、一方でギンベルズは庶民をターゲットとするデパートだった。なんと、ギンベルズは初めて店内に黒人女性専用のヘア・サロンを開設したデパートとして知られている。
 1983年当時、僕はこのギンベルズが好きで暇な時に時々店内をうろついた。別に買い物をしたかったわけではない。クラシックな外観、出入り口の重い回転ドア、古い木製のエレベーター、古いエスカレーターもゆっくり動く。いつも閑散としている店内は、日本のスーパーマーケットの日用品売り場にあるような安っぽい商品が並び、でもそれらの商品がデパートらしくきっちりとディスプレイされていた。黒人の店員が多かった。衣料品売り場には、ギンベルズの名前のタグが付いたオリジナルブランドのシャツやコットンパンツなども売っていた。何か時間の流れが止まったようなデパートで、好きだった。1983年のニューヨークの街を思い出すとき、僕はこのギンベルズの店内の光景が眼に浮かぶことがある。

 続く…

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