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『医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者』

(ざっくりサマリー)
・医療者も患者も、行動経済学で説明できる意思決定上の落とし穴に陥りがちである。
・行動経済学のツールを活用することで医療者も患者も意思決定の質を改善することができうる。

(マーカーをつけたところ)

当初は、医療者は自身の説明の至らなさに目を向けて、落胆したり、怒りを感じたりすることが多い。そして、こういった経験を多く積んだ医療者の中には、次第に一定の割合でこういった患者がいることに慣れてきて、その仕組みを理解することをあきらめてしまう者もいる。
医師ではない一般の人においては、男女でリスク回避の傾向に差がないという研究結果と、女性の方がリスク回避型であるという研究結果が混在している。ただし、興味深いことに、男性の方がリスク回避型であるという研究結果はほぼ皆無であるので、やはりどちらかというと、女性の方がリスク回避型であると言ってよいだろう。

(読んで欲しい人)
まず第一に、かかりつけ医/総合診療医/ホームドクター。ほぼ全ての話題が人生の最終段階における医療・ケアに関するものなので、これに絡む医療スタッフに役立ちます。行動経済学の前提知識がなくても読めますし、逆に医学や医療現場の前提知識がなくても読めます。

(エッセイ)
『〇〇現場の行動経済学』の〇〇に何かの業界の言葉を入れれば新たな本ができあがる、それほど行動経済学は広範囲に適用できるアプローチです。一方で、医療現場の特性として、情報の非対称性が著しく大きいこと、意思選択の過程において(対話以外の方法を含む)コミュニケーションの寄与度が高いことが挙げられます。また、文字通り人の生死に大きく関わる問題であるため、他の業界に比べても行動経済学が果たせる役割が大きいと言えるでしょう。

特に、医師は医学的に合理的な判断を行い、患者は医学的な情報を与えられれば合理的に意思決定を行う、ということが前提とされてきたことが、「伝統的な経済学の人間像が、高い計算力をもち、取得したすべての情報を使って合理的に意思決定するという、ホモエコノミカスとして想定されていたこと」と相似であるという指摘は慧眼であり、正に医療現場こそ行動経済学のフィールドに相応しいと思えてなりません(あるいは単に私が利用可能性ヒューリスティックに陥っているだけかもしれません)。そういう点では、医療に関係のない読者にとっても、行動経済学を学ぶのにちょうどいい題材で説明されている本であると言えます。

上にも引用しましたが、患者とのコミュニケーションの失敗が重なることで、患者の意思決定の仕組みを理解することをあきらめてしまうことに繋がりうるもので、歪んだコミュニケーションが支配的になってしまうことがあります。時に医療現場では「ICを取ってくる」という表現がなされることがありますが、これはもはや結論ありきの手続きでありICの形骸化であり、「偽装されたパターナリズム」であると言えます。それに比べるとリバタリアン・パターナリズムが全面的に誠実であるとみることができるため、ナッジは新たな患者とのコミュニケーションの視座を考えるのに有用です。新たに外部から術語を導入することは、コミュニティに新たな学問的知見をインストールすることです。ある事象が一般化される、一般化された事象に再現性がある、再現された事象にある名前が適用される、その名前で事象が説明できる。定着化された術語には、そんな力があります。この本を通じて、医療の現場で、行動経済学の術語の力が効果的に発揮されることが望まれます。

また、医学系の読者にとっては、経済学は金儲けや政治の学問などと思っていたけど、意外に人間味がある論によって目の前にある自分の仕事の解決に一役買ってくれそうな学問でもあることが感じ取れたでしょうし、経済系の読者にとっては、医学が投薬や手術といった技術科学的な要素だけでなく、ACPや緩和ケアといった。所与の最適行動がないテーマが予想以上に多いことが知られたと思います。この本は、書店によって経済系のコーナーに置かれたり医学系のコーナーに置かれたりしているようですが、こうしたクロスセッションによって新しい風が吹くことは学際的な仕事の成果と言えるでしょう。

ところで、論旨のコアの部分に影響を与えないのかどうか判断がつきませんが、読んでいて気になったのは、前半の章の事例に登場する患者の多くが60歳代以下だったことです。実際にはエンドオブライフ医療の代表であるがん罹患者数は第8章で指摘されているように65歳以上の割合が圧倒的多数です。若年者における余命延長の価値と高齢者におけるそれの価値が仮に有意に差があるとすれば、少し論をスムーズに読み手に理解してもらうためにフレーミング効果を使ったのではと邪推します。


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