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アラ還おじさんのMid Point(7)25年振りのバンド活動【低迷と復活そして再び低迷】

こんにちは、アラ還おじさんです。
1992年から93年にかけてスーパーる〜ずの活動は低迷期に入ります。
ドラムを担当していたKさんが富山に転勤となって2年目になろうとしておりました。
バンド活動はKさんが埼玉に帰ってくる際にスタジオに入り練習するだけ、ライブはなかなか出来ない日々が続きましたが、ここでひとつの転機を迎えます。
それはレコーディングで曲を記録として残す事とあわよくばこの曲をどこかのオーディションに出せると良いなあという淡い期待。

初めてのレコーディングは亀戸駅前商店街の一角の雑居ビルにあった音楽スタジオでした。
ここのご主人は独り者で恐らく当時40代後半、このビルのオーナーであり、スタジオの階上(多分最上階だったと思う)に住んでおりました。
練習やレコーディングで10時か11時にスタジオに行くと鍵がかかっており開かず、階上のオーナー宅のチャイムを押すのが日課のようになっておりました。
この時のオーナーの口癖は「俺を起こすんだよなあー」というやる気の無い声。
若いころはゴーストライターとしてアイドル歌手などの作曲もしていたというこのオーナー。バブル崩壊の後ではあっても店子の家賃も入り悠々自適な暮らしぶりは本当に羨ましかったです。
(タイトル写真は現在の亀戸駅北口交差点付近、「カラオケ館」と少し先のカラオケの間あたりにスタジオオーナーのビルがありました。ご健在であれば多分70代、もうビルもスタジオも経営されていないかもしれませんね)

話を戻しますが、川口のスタジオの予約が取れない時は時々ここを使う事がありました。ここで格安でレコーディングもやって貰えるということで、2曲を選んで録音をしたのでした。
初めての録音は失敗といっていいレベルでした。音はびっくりする程良く、外に出しても恥ずかしくないものでしたが、如何せんドラムのリズムが打ち込みのシンセの音とずれたままでの完成となってしまいました。この原因はKさんが緊張のあまり1曲目のテイクが30〜40回を超える程であった事から、最後は疲労でどうにもならないという状況だったためと思います。今のようにデジタルではないですから、後から編集により直すことはできませんでした。非常に悔いの残るレコーディングとなりました。
ボーカルのAさんはかなりイライラしていたのを覚えているし、トラックダウンは僕とキーボードのHさんと二人だけでこれまた徹夜でスタジオに篭ってやった記憶があります。当時アナログ録音したマスターをミキシング、トラックダウンしてDATに保存したんですよね。今の若い人にDATって言っても通じないだろうなあ(笑)
結局は2曲の予定が1曲だけで時間切れということになり、これが更にメンバーのテンションを完全に下げてしまったと思います。

それでも挫けず、府中に録音機材込みで格安で使えるスタジオを探し出し、わざわざ埼玉と千葉から車で数回府中まで通いました。亀戸での苦い経験を活かし、また関東に帰ってくるKさんの都合に合わせて、ドラム、ベース、打ち込みを効率よく録音してゆきました。「かぶせ」類はその後ゆっくりと重ねてゆくことで持ち曲全てを録ることに成功し、ひとつの達成感を覚えました。
しかしながらKさんの関東に戻る頻度はどんどん少なくなってゆきました。

1980年代のTEAC製のオープンリールデッキ
多分これよりは新しい機種だったと思います。
テープをわざわざ買って、自分達でレコーディングしました。



93年に入ると完全にバンド活動は開店休業状態で、Hさん、Aさんと婚約者そして彼女の友達、元サイドボーカルだったTさんとその婚約者など数人と頻繁に旅行に行ったり、屋形船パーティをしたりとひたすら音楽以外のレジャーを楽しむようになりました。

ほぼ楽器を触らない日々が続き、僕も別の趣味にも走り初め、バンド関係以外の友人、人脈を広げてゆくことになります。

再び訪れた低迷期の中で、またひとつのきっかけで活動が再開されることになります。

<(8)に続きます>

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