希望につりあわぬちっぽけな私

こんなにも小さな私に何ができると言うのだろうか。
思い上がりばかりで、ちょっとやそっとの能力を持った気になっているかもしれないが
ふと現実に触れた時には心が折れるどころか、
ぎゅっと縮まって小さくしぼんで消えて無くなってしまいそうなくらいなのに。

そうやって自分がちっぽけであると思い知り、
だんだんと、夢も希望も抱かなくなるのだろうか。
自分の周りの小さな幸福のかけらの価値を知ることは尊く、そんな感性を持つ人に憧れるし、私もそうなりたいと思う。

けれど、小さな幸せをあ集めるだけになってしまうことが不安なのだ。
もちろん、それがその人の幸福であれば、素晴らしい。

でも、道端で亡くなっていく人を、
保護施設の中で外の世界を羨みながらしぼんでいく少女を、
明日に希望はないとベッドに沈む失業中の青年を、
見てもなお、小さな幸福に執心できない、これがアガらえない私の性分なのだろう。

私が今、思い描くようなたいそれたことは「きっと」できない。
私は怠け者だし、ビビりだし、特別な才もない。
でも、私だけの力があるのならばこの思いをバカみたいに信じることだろう。
「きっと」と使ったが、冷静になって考えるとこの言葉は適切でなくて、
「絶対に、200%」できないし、無理なんだ。
現実に触れるたびに、自分の矮小さを認めるたびに、小さく型にはまる私を知るたびに、気づいてしまう。
無理なのだと。

でも、この思いをなくした先に私は私になれるのか。
きっとなれる。
それでもこの思いにしがみつきたいのは、
私がその思いに向かうときに幸福があるからだ。
少しでも私の触れた何かに豊かさが灯ればと願うからだ。
言葉ばかりで行動も能力もちっとも追いつかない、
現実感は私を絶望させようとする。

それでもそれでもと、必死にしがみついた先に、
叶わない未来が「きっと」待っている。

この言葉を行動に、一歩に、悲惨な現実に踏み出そう。
この言葉は希望ばかりで現実味がない。
当たって砕けて小さくなってしまえばいい。
絶望するがう良い。
それでも、行動の中で言葉を発せる確固とした私に幸福を見出す
私を、私は信じている。

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