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音楽的アウェイ

無印良品がBGMをサブスクにしていたので今日は流しながら掃除をしていた。今も流している。

最初は「うわ!無印の曲だ!」と思うんだけれど、しばらくすると特に流れていることに意識が行かなくなるのが面白い。部屋に染み込む感じがする。やはり店内BGMのためにその道の人がわざわざ作ったBGMなのだから、てきとうに好きな音楽を流しているのとは質的に違うのだろう。

「その地域に根差した音楽を現地の演奏家で」ということだが、それぞれテイストは違うはずなのに、耳なじみというか、「耳ごし」(のどごし的な)みたいなものがだいたい一緒なのも面白い。ティンホイッスルもケーナもトポロジー的に同じ、みたいな話だろうか。

民俗音楽=昔から現地で手に入りやすい素材の楽器を使った商業ベースを意識しない音楽だから、聞き流せる音楽としてストレスがない、というのはまぁ納得できるのだが、それなら日本ではどうだろう。お囃子とか、民謡、もしくは能楽が鳴っている部屋でゆったりできるかというと、正直微妙な気がする。

要は、適度にわからなくて、適度にわかるぐらいが一番いい、ということなのかもしれない。日本の民謡だとあまりにも情報として「わかり」すぎて、脳が感知する情報が多すぎてしまう。国内のものでも、例えば沖縄民謡ならもう少しBGMとして沁みる気がする。海外の音楽でも、変拍子が激しすぎるとか、使っている楽器の想像がつかない音がしているとか、そういう本当に何の解釈もできないものだったらそれはそれで落ち着かないだろう。丁度良く心当たりがあり、なおかつ丁度良くわからないことが重要なのかもしれない。

そう考えてみたものの、別に人生で日本の民俗音楽を四六時中聞いてきたわけではない。多くの人にとって、せいぜいお祭りのシーズンだけとか、テレビの教養番組とか、聞く機会なんてその程度だろう。それこそBGMなどをカウントして良ければ、クラシックの方が多く聞いているかもしれない。

そんな状態でも、この身体は日本民謡を「俺らの音楽」と無意識に思うのだろうな、と考えるとちょっと面白い。アイルランドの人はそんなに頻繁に自分のところの音楽聞くのかしらと考えながら、無印のアイリッシュのBGMを聞きつつ、日本酒を飲んでいます。


今日はここまで。ありがとうございました。




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