見出し画像

お気持ちの欠如

自分には感受性というやつが欠けているなぁ、とよく思う。

漫画とかアニメとかあれやこれやのオタクだったり、ものを書いたりしているので、さぞかしそういうものが豊かなんでしょうねと思われることもあるのだが、全然そういうのとは関係がないと思う。

例えば、自分とは全然関わりのないことでも悲しいニュースに心を痛めてちょっと落ち込むとか、そういうの全然よくわからないな。もちろん、悲しい話を読んだら悲しい話として理解しているんだけど、それが私という存在と融合していない気がする。粒立っている。

こういう場でこういう話するのって不謹慎だよね、不快になるよね、みたいなのも感覚的にはよくわからない。理性の力で経験則的に、だめっぽいな、ということを推し量っているにすぎない。

親しい人といるとそういうタガが外れるので、このあいだもお肉が食べたいねと入ったレストランでステーキを食べながら、「人間も生肉の塊だというのに、長ければ100年も腐らずに保たれているのが不思議だ。60キロ近い肉が30度近い気温下に置いてあるのに。生きているからということは知識として分かってはいても、いまいち腑に落ちていない」という話をしてしまった。口に出してからこいつぁ今する話じゃないなミスったわ、と思った。「確かに100年は長いね」と応じてくれる人で助かった。倫理観に問題がある人間はそれを先に周知しておくべき。

Twitterとかnoteみたいな誰もがお気持ちを発信できるツールを手にするようになって、どうやら世の人は私よりずっと多くのいろいろなことに悲しんだり怒ったりしながら生きているらしいということが見えやすくなってしまった。それってどんな感じ???ねぇどんな感じ???

こういう類の情緒を育ててくれるのが読書だったりするのかもしれないが、もうそこそこ本を読んでいると思うのでどうやってこれから育てていけばいいのかわからない。生来のものなんだろうか。まぁ、あると苦労も多そうだから必ずしもあったほうが良いのかはわからないスキルなんだけど。

今日はここまで。ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?