自己価値について知って思うこと

先日夫と自己価値尺度(CSWS)というものをしてみた。
夫が好きなブロガーさんが紹介していたものらしく、検索しても見つからないが、近いものは見つかった。

https://web.archive.org/web/20180728182324id_/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/79/3/79_3_250/_pdf

日本文化における自己価値の随伴性
   自己価値の随伴性尺度を用いた検証
内田由紀子  甲子園大学

この尺度によって、
「競争性」「外見的魅力」「関係性・調和」「他者からの評価」「仕事・学業能力」「倫理的であること」「家族・友人からのサポート」の7つの項目のうち
"自己価値をどこにおいているのか"
"自己価値が低下するきっかけとなるのはどういったことか"
といったことがわかるらしい。

結果はこのようになった。

競争性…4.4
外見的魅力…2.8
関係性・調和…5.4
他者からの評価…4.2
仕事・学業能力…3.6
倫理的であること…6.4
家族・友人からのサポート…6.4
(Max7点)


倫理的であることと家族友人からのサポートが同率1位。しかも最大7点であるからそこそこ高値であるといえる。
思い当たる節はかなりある。

自分の大切な人のことはいつだって助けたい、力になりたい、支えたいと思う。
家族や友人からサポートしてもらえるということは、その人たちから私は大切に思ってもらえているのであろう。
自分に価値があるかなんて自分ではわからない。
しかし、自分のことを大切に思ってくれる家族や友人がいるので、私は人から大切にしてもらえるだけの価値があるのだろうなと思う。
その反面、その人たちが離れていってしまえば自分は価値のない人間であると思ってしまう。

ここまで書いていて、私は自分の価値を他人に依存してしまっているのだなあとなんだか情けなくなってしまった。
それに気づいただけ前進なのかな。やっぱり考えを書き連ねるのっていいね。

さてお次は倫理観について。
これも思い当たる節がたんまりある。

私は基本的に曲がったことが嫌いな性分である。
幼い頃母親から「天知る 地知る 我が身知る。
誰にもバレないことでも、お天道様は見てるし、地面も見てる。何より自分が一番見てる。誰も知らなくても、悪いことことをしたことは自分が一番よく知るんだよ。そしてあのときあんなことをしたという気持ちをずっと抱えて生きていくことになるんだよ。」とよく言われていた。
調べてみると"天知る 地知る 我知る子知る"
誰も知らない秘密だと思っていても、天地の神は知っているし、私もあなたも知っている、秘密は漏れないものだと思ってはいけない。
という意味であり、私が今の今まで信じていた意味とは異なっていた。
長年勘違いしていたこともあり、私には前者がしっくりくる。
そしてこれは私の人格形成に絶大な影響を及ぼしていると思う。

「ちょっとぐらいルールを破ってもいいよね」「ちょっと手を抜くか」と魔が差したときはいつもこの言葉がよぎり、正規の方法を辿ることが多い。
小さいことだと、夜中に車がまったく通らない赤信号を無視して渡れないのである。
周りのみんなが「いいよやっちゃおう」と盛り上がっていても、「いや私はやめておく」と言ってしまう面白みのない人間なのだ。
それでもつい魔が差して、少しズルをしたり、だめなことをするときがある。
そのときはよくても、やはり後から「あんなことをしてしまった。」「ダメなことをした。」と罪悪感に苛まれ、落ち込むことがある。
こういうとき、自己価値は間違いなく低下しているであろう。

こんな私のことを「真面目だね」と評する人は多い。でも私は真面目なわけではなくて、自分が罪悪感に苛まれるのが嫌でそれを避けているだけなんだよと、それこそなんだか申し訳なくなる。

とはいえ「間違ったことしてる!許せない!」と他人に怒りが向くこともよくある。
私は自転車通勤をしているのだが、交通ルールを守らない人たちのせいで毎回気分を害す。
逆走自転車の多いこと多いこと。
逆走+並走は本当にイライラする。
よくあるのが、正面からきた逆走自転車を避けるために私が車道側に寄ったり、一時停止する場面。
「なんで私が危ない方によらなかんの!!!💢」
「なんで私がとまらなかんの!!💢」
「お前が避けろや!!!💢」
「ふざけんじゃない!!!💢」

涼しい顔して心の中では罵詈雑言である。
私としてはこれは真っ当な怒りだなと思う。
だってルール破ったの向こうだもの。


これは本当によかったのかといまだに思う出来事がある。
私は学生時代に3回いじめられている子に関わっていたことがある。
1度目は5年生のとき。
転校生がいた。前の学校でバスケ部に入っていて、転校してきてからもバスケ部に入った。
私もバスケ部だったこともあり、仲良くなった。2人で遊んだりおしゃべりすることが多かった。
その子はバスケがとても上手く、すぐにスタメンになった。すると、クラスの中心だったバスケ部の子をはじめとした数人からその子への無視や悪口が始まった。
その子がとてもハキハキした子で、臆せずものをいうこともいじめっ子たちには面白くなかったのだろう。実際無視や悪口に対してもどこ吹く風という感じだった。しかし私は転校生と一緒にいることが多かったので、近くでそれを見るのが苦痛だった。
いじめっ子たちに「あいつを無視しよう」と言われたが、「なんでそんなことするの。私は嫌だ。」と応え、無視され続けるその子とずっと一緒にいた。
どれだけの期間だったかは覚えていないが、次第にいじめはおさまった。代わりに少しの間、なぜか転校生といじめっ子がつるんで私が無視された。
(転校生が罪悪感を持ったのか、後日謝ってきてまた仲良くなった)

2度目は6年生のとき。
経緯はまったくわからないが、1人の子がひどくいじめられていたことがあった。
1度目のときと同じいじめっ子グループと仲がよかった子だった。
どういうわけかその子がトイレの個室に駆け込み、いじめっ子グループがそれを追いかけて「おい出てこい」等どなりながらドアをガンガン叩いていたのがひどく印象に残っている。
数分間それが続き、いじめっ子たちが出て行った後にその子に声を掛け、泣きじゃくるその子を連れ保健室へ行った。
その後どういう経過だったのかはわからないが、多分先生たちが動いたのだろう。
なんやかんやで解決した。
解決するまで私はその子と一緒にいた。
そしてまたもや私はそのグループと庇った子から無視されるようになった。
そのときは1度目のときの転校生の子が私の代わりに怒ってくれていたのはいい思い出である。

3度目は中2のとき。
同じクラスにとてもとても声が小さく内気な子がいた。言い方は悪いが例えるならカオナシのような子だった。自分から話しかけるわけではなく、誰かの後ろを黙ってついていく少し変わった子だった。
そんな様子なのでクラスの所謂陽キャの女子から悪い意味で面白がられていた。
わざと話しかけられたり、煽ったりと見ていて気分のいいものではなかった。
林間学校で決定的なことがおきた。
経緯はわからないが、私やその子がいる部屋に陽キャの子や小学生のときのいじめっ子グループが怒鳴りながらのりこんできて、うずくまるその子を大声で罵りながら蹴り始めた。
最初は何が起きているのかわからず呆然としていたが、次第に怒りが湧いてきた。
気付けば「何してんの!やめてよ!!」と泣きながら怒鳴っていた。自分でもびっくりした。
同じ部屋にいた友達やいじめっ子が一斉にこちらを見たのが忘れられない。
ちょうどレクの時間だと呼びにきた先生が、泣いている私とうずくまって数人に囲まれているその子をみて、何かが起きていると察してくれたのか、その子といじめっ子を別室に連れて行った。そして私は別で話を聞かれた。
そこからのことはあまり覚えていないが、まあ色々あったのだろう。

これらの出来事は世間的には「虐められた子を助けた話」なのだろう。
そういえば大層なことをしたように感じる、
でも実際はそれらの行為が許せなかった。見たくなかった。傍観している自分が許せなかった。そういった思いで動いただけだった。
全部自分の気持ちなのだ。
自分の近くで行われている見たくないものを遠ざけたかっただけのことだ。
その子たちを助けたいという気持ちで動いたのではない。自分が嫌だからとめただけ。

1度目のことは、別に私が何かをする必要はなかった。私が何もしなくても、その子は十分強かったし、何も気にしていなかった。
私が勝手に寄り添った気分になって、無視されたら「私は離れなかったのに」と勝手に傷ついていただけだった。別に向こうからすれば「あなたが勝手に庇った気分になっていただけ」なのだ。当時の私は彼女を救った気分になっていた。浅ましいなと思う。

2度目だって、完全に部外者の私が首を突っ込む必要はなかった。その子に声をかけずとも、こっそり先生に言うだけでよかったかもしれない。もしかしたらその子が自分でなんとかしたかもしれない。

3度目の件はそれまでの2つと違って完全にいじめっ子に向かっていった。
その結果、その子は私にくっつくようになり、先生たちから所謂「お世話係」のようにみられるようになった。
最初のうちは特になんとも思わなかった。今までその子とそんなに話したことがないから、話す機会が増えたなあぐらいに思っていた。
しかし、班決めのときにいつもその子と組むようになったり、いつも私の後ろを黙ってついてきたり、進級しても先生たちから「よろしくね」と言わんばかりに同じクラスになったりと次第に「なんか嫌だなあ」という気持ちが湧いてきたのだった。
自分がことを荒立てておいてなんたる言い草だと思う。
そりゃあの状況で私があんなことをすれば、その子にとって私は味方になるわけで、一緒にいたいと思ってくれるのも当然である。でも私は自分の苦痛を遠ざけたいがために後先考えずにその場に割り込んだだけである。それで嫌だなあなんて思えば、行動に移していないだけで、本質的にはいじめっ子たちと変わらないのではないか。いじめっ子たちの行為を許せないと言いながらも私だって同じことをしているのではないか。

あの出来事から15年ほど経つが、いまだにふと思い出して考え込むことがある。

正義って、倫理ってなんだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?