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俺の・私の野球史-池端航洋

まず初めに、私は全日に出たくて出たくてたまりません。何とか関学らしく楽しんで全日本選手権への切符を勝ち取り、そして今年果たせなかった全日での勝利の祝杯をあげましょう。

少しこれまでの野球人生を深く振り返らせていただきます。私は小学校時代にキャプテンとして全国大会を経験しました。これは小中高を通して、一番の成功体験でした。小学校時代は父親に毎日400球ほどトスを上げてもらい、小学生にしてはめちゃめちゃ練習していたと思います。本当に父親には感謝してもしきれないです。
その練習の効果もあってかチームの中でも中心選手で、年間通しての打率も5割越えで、完全に調子に乗っていたこともあり、中学野球をするチームは当時地元で一番強かった北摂シニアに決めました。ここからが挫折の始まりだったと振り返って確信しています。体が小さく、足も遅く、パワーもなかった当時の私は試合に出ることはほとんどなく、ベンチに入れるか入れないかのギリギリを彷徨う、そんな選手でした。最終的には試合に出ることができないことがきつかったことや得意だった勉強に専念することを決意し、北摂シニアを退団しました。
そして一般受験で土佐高校に進学しました。土佐高校では勉強と野球の両立に全力を注ぎましたが、パッとした成果は何もありませんでした。とりあえず毎日12時過ぎに寝て、朝5時50分に起こされるのが苦痛で仕方なかったこと以外あんまり記憶にありません。そして学歴第一主義の土佐高校の一般生徒との関わり方には本当に苦労しました。その人たちのせいでコミュ障が深刻化した時期がありました。そんな経験から「価値観人それぞれやからなぁ」という言葉が口癖になったと思います。

これらの挫折経験をもって、大学で硬式野球をする自信がなく、準硬式野球をすることに決めました。そして新しい挑戦として、高校までは内野手をしていましたが、大学からピッチャーをすることに決めました。この選択をできたのは、高校時代のキャプテンの石原田君が私のサードからファーストまでの送球が日本一とほめてくれたからだと思います。
おそらく私は打つことよりも投げることの方が得意であったため、初登板完全試合やその他のタイトルの獲得、全日本出場など、大学ではそこそこ思い通りに事が進んだと感じています。
そんな中でも私が最も悔しかったのは全日本選手権の1回戦敗退ではなく、自分が3回生になったときの秋の関西選手権準決勝で龍谷に負けた試合です。私は関西1位になることしか考えていなかったので、負けたことを受け入れることができませんでした。
またそこで初めて関学の他のメンバーとのモチベーションの差に気づかされました。

今準硬生活を振り返って、今感じることは本当に入部してよかったということです。中学、高校時代は本当に野球において結果が出ませんでした。そのため野球人としても人間的にも本当に自信がなく、人と話すのが怖いと思うときすらありました。
大学での準硬式野球部での活動を通して、大学から本格的に取り組んだ投手としてはもちろんのこと、人間的に成長することができたことが本当にありがたいと今になって感じます。

私は1回生の時からリーグ戦を経験させていただき、春リーグを勝ち抜いていくことがどれだけ難しいかを理解しているつもりではあります。それを考慮しても、関学全員が本気を出せば絶対に優勝できると確信しております。だからこそリーグまでの残りの練習にも全力で取り組みましょう。
個人としては、スタンドの観客の方々や関学の後輩たち、他大学の選手に生きる活力を持ってもらえるような溌剌としたプレーをし、“関西六大学の山本由伸”と言われる圧倒的な活躍をします。

最終的には関西六大学準硬式野球連盟に所属する同期が「準硬という選択をしてよかった」と言えるようなリーグ戦になれば最高だと思います。そうすることで関西六大学準硬式野球連盟の発展、ひいては大学準硬式野球の繁栄にも寄与できると確信しております。

最後にここまで私の人生に影響を与えてくださった両親や仲間をはじめ、すべての方々に感謝申し上げます。感謝の気持ちを忘れず、私の人生理念である「全力・感謝・笑顔」を体現できる最高のリーグ戦を関西六大学準硬式野球連盟の仲間たちと作り上げることを誓います。

以上をもちまして、池端航洋の「俺の野球史」を締めさせていただきます。
最後に宣伝させていただくのですが、私はインスタグラムでピッチング動画の投稿をしております。年内にフォロワー1万人を目指しております。皆様の生きる活力となるようなそんなピッチング動画をあげておりますので、まだフォローしていない方はフォローしていただいて、フォローしてくださっている方々は拡散よろしくお願いいたします。

@koyo_ikebata_eq2

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