まあ、じゃあ
文章を書くか。文章を書きたいから文章を書こう。文章を書くために文章を書くのだ。だから文章を書くという行為に対してのもっとも純粋な文章だ。
金儲けでも名声でもないし日記でもなく、単に文章を書きたいから書いた文章だし、何かの練習でもない、単に書きたいから書くのだ。文章という言い方は対象のことなので執筆というべきなのだが、スマホで指でスライドしながら打っている文章に筆という言葉が入っていることも、指とスライドと打つという矛盾した言葉が混じっていることも気になる。それになんか執筆って言い方はちょっと高級っていうか、気品溢れるっていうか形式ばっているか、っていうそんな感じがするから、だから文章を書く、くらいがテンションとしてはちょうど良い。
1番気軽にストレスなく作れるものづくりがこれで、いくらだって書けるけど、出来れば絵が描けた方が良かったし音楽が弾き語れたりした方が良かった。そういうものは手遊びであったとしても、ある程度の技術が必要だしそれに!文章と違って見る方が頑張らなくても人を感動させるようなパワーがある。食べやすい。
文章を読む人は減っている。単語や短文だけでもコミュニケーションが取れるから、それで十分な時代に、わざわざ長々とした文章を読む人は少ない。それに、単語の畳み込み方をなめてはいけない。エモいという単語にどれくらいの記憶や風景が内包されているか、ヤバいという単語にどれだけの数の感情やイメージが内包されているか。そんな言葉が共有されている時代はなかっただろう、と書こうとして、いとおかし、とかを思い出してしまった。
様々なイメージを1発に畳み込んでしまう言葉の力強さはあなどれないし、またそれがメジャーになるということは、たくさんの人が支持した/たくさんの人のイメージを畳み込んできてバケモノのように育ってしまった言葉という事実がある。そんな言葉使うんじゃありません、と一蹴するのは安易だ。真正面から向き合わないといけない。
エモいは。\、たくさんの人のイメージや感情を飲み込む過ぎたが故、具体から抽象に棲家を変える必要があった。
つまり、エモいが連れてくるイメージは個別の具体性がない。エモい世界の住人は多過ぎる。だから全体としてはモヤっとしている。
さらにエモいを受け取る人間の中で、エモいのどの部分を取り出して感受するかが違う。あなたと僕がエモいから受け取るイメージは違う。だから、エモいという言葉を使って会話をしていても、実はまったく違うことを頭の中に解凍して話している可能性が高い。その差異をエモいという言葉は過激なクッションとして吸収して、コミュニケートさせてしまう。
過激なクッション、というのは、コミュニケーションというのが実は物凄く複雑で難しいことであることを覆い隠す、という意味だ。本当は難しいコミュニケーションは、コミュ力という言葉が連発される社会の中で、皆が身につけねばならないような風潮になっている。でも大半の人間にはそれは無理なので(壊滅的に僕も無理)、コミュニケーション能力を本当に身につけるよりも、コミュニケート出来ているかのように、お互いに誤魔化すスキルの方が発展してしまった、というのが今の時代だろう。エモいに限らず、カタカナ語のビジネス用語もその類だ。本当は誰もその共通理解なんかないのに、フワッと棚上げして、理解しているという空気感だけを共有する方向に行った。
まあ、でも、別にそれでも良いんじゃん、って思う。というよりもそれに対して文句を言っても仕方ないし、どうにもできない。それは人類史的にずっとそうだと思うし、批評めいたことを読んだり考えたりするのは僕は好きだけど、だからと言ってそこを頑張って他人に指摘し続けたところで、世の中全体の総意、社会の空気感みたいなものを変えることはできない。それはそれで良いと思っている人や、それが機能して何となく回っている社会にとってはうるさくてウザい。
せいぜい個人にできることは自分の身を守る程度のことで、たまにこうやってエモいという言葉について考えて脳をエクササイズさせてみる程度のことである。
そういえば、ネガティブな言葉ってあまり廃れない。僕が中学生の頃もウザいは現役だったが、今も現役だ。エモいはいつまで持つだろうか、というか僕が知らないだけでもう死んでいる可能性もあるけど。死んでいる、というのも世代や、その言葉を使っているコミュニティに寄って違う。言葉は使われている場所に寄って生き死にが変わる。ナウいが生きている場所もあるだろう。死語は言葉の死だけでなく、同時に世代やコミュニティや文化の死でもあるだろう。
そんな感じのことを少し俯瞰してみると、いとおかし、って気分になるし、人類頑張って生きてるよね超エモい、って気持ちにもなる。
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