坂本龍一×高谷史郎「Time」を見て

新国立劇場にて「Time」を見てきた。世界的な音楽家の坂本龍一氏と、日本のパフォーミングアーツの大家であるダムタイプのメンバー、高谷史郎氏のコラボ作品。この二人は数多くのインスタレーションや映像作品でもコラボしているが、坂本龍一氏の死去により、恐らくこれが最後のシアターピースになる。

舞台の中央には水面があり、その背後には巨大なLEDウォールがある。高谷さんの作品は、面白い舞台上の仕掛けがいつも効果的に使われていて、それを見るのも楽しみの一つである。

*なんとLEDウォールじゃなくて特殊スクリーンを使ったプロジェクションだったそうです。高谷作品はいつも、サラッとした使い方で他の現場で見たことのないメディアが出てくる。


ここからはネタバレしかないです。


舞台が暗転すると、水の音が客席に響き渡る中、一人のパフォーマがを演奏しながらゆっくりと歩いてくる。静かな水面の中を歩き、ゆっくりと舞台袖に捌けていく。このオープニングの時点で、「Time」の意味がわかる。

客席に聴こえる水音は静止することなく流れ続けているが、舞台中央の水面は静止している。流れ続ける水と静止している水の対比で、恐らくこの舞台上は、過去か現在か未来の、ある時点での時間が固定化され切り取られた場所、ということが予想できる。

その中でパフォーマの田中泯が、LEDスクリーンと水面双方に映し出される自分の姿を見つめている。それはまるで時間が静止した空間に閉じ込められているようだ。水面を揺らしてみたりするけれど、その空間を破壊することは出来ず、空間はひたすらに閉じている。

「夢十夜」(第一夜)、「邯鄲」、「胡蝶の夢」のテキストが読み上げられる。いずれのテキストも、時間に閉じ込められる人間の話だ。途方もない時間を過ごしたと思って振り返ったら、一瞬で過ぎていた時間。幻の時間。予約された未来の時間。

各テキストのレイヤーは、舞台上での進行では並列に走る。例えば「夢十夜」のシーンを途中まで読み上げたら、次に「邯鄲」が途中まで読み上げられる、という感じである。テキストの後には、それに関連した田中泯の行為がある。女との約束を守るために墓石を作ってみたり、途方もない時間をやり過ごすために橋をかけてみたり。 しかしその橋は不安定で渡ろうとしてもよろけてしまう。

彼がそうした行為をしている間、背後のLEDスクリーンには膨大な時間の集積が流れる。やがてそれらは同一の内容にタイリングされるけど、ところどころが欠けている。消えては現れる度に欠け方が変わる。完璧には覚えていない記憶(人間の記憶はそんなもんだ)、振り返る度に少しずつ壊れて変わってしまうような過去の時間を参照しながら、パフォーマは新しい何かを作ろうとしている。

グリッド達も現れる。たまに交差して点になるそれらは、あり得たかもしれない別の時間にも見える。ここにそれは無いけど、でも、どこかに確実にある別のライン。

そして舞台上に雨が降り出す。このシーンは白眉だ。絶対にこの雨は物理的な雨ではなくてならない。何故なら客席側で流れ続けていた雨音が、顕在化して舞台上に現れるシーンだからだ。静止した時間が解放され、動き出す瞬間だからだ。そもそも舞台にプールを持ち込んでる時点でやばいのに、これを実現できたのは凄い。ビビる。LEDスクリーン壊れないか、大丈夫か。

ただ、時間が解放されても人間はそれに戸惑うばかりである。いきなり派手に嬉しそうに踊りだしたりするとわかりやすい展開なんだけど、そういう方向には行かず、雨を味わうようにゆっくりと動いている間に雨は止む。また時間は閉じてしまったのだろうか?

閉じた時間にもう一度抗うように、盛大に田中泯が転倒する。演出かどうかはわからないが、転倒の際にLEDスクリーンが揺れる。手で水面を揺らすのに飽き足らず、空間全体にアタックを仕掛ける。

そうして作品は冒頭に戻る。ゆっくりと女性が歩いてくる。それは冒頭とまったく同じようにも見えるが、確実にここまで田中泯が行ってきた行為が、空間全体の静謐さや重厚さに比べれば、ひっそりとだが、確かに残っている。

しばらくの暗転。客席の電気が点く。扉が開く。外の光が差し込む。僕らもずっと閉じた時間にいたこと、そこから解放されたことがわかる。突然の終演に僕らは戸惑っている。高谷さんが舞台前に降りてきて、そこでやっと拍手が起きる。このシーンも演出かはわからないけど、雨の中で戸惑う田中泯と客席の解放が対になっているような気がした。時間からの解放にはきっかけがいるのだ。もし、高谷さんが盛大に転倒したら爆笑したけど。


過去や未来にあった出来事は静止していて、それを僕らは時たま見つめる。静止した時間は、歪な鏡のように、この舞台における水面のようにこちらを見つめ返してくる。そこに干渉しようとしても困難さに出会うばかりだ。これ自体はとても抽象的なことだから、色んな読み方が出来ると思うし、して良いと思う。人によっては過去の栄光であったり、未来の不安だったり。僕はこれを作品制作の話だと思った。

何かをつくるということは、過去の作品を見つめることでもある。それは自分の作品だけでなく、先人達の作品も含めてだ。作品は作家のある時間を永遠に閉じ込めて、静止させたものだ。その過去と対峙して葛藤し、時に戸惑い派手に転倒し、永遠と思える時間を過ごしたと思ったら一瞬で終わっている。そういう時間の流れ方を、作品をつくっている時に経験することはあると思う。

そうやって作ったものが、たとえ水面に残った石や木の残骸のようなものでも、それは確実に過去から変化している。そうやって人間は文化や技術を作ってきたのだろうと思う。


家に帰ってXを眺めてると、0円ハウスやいのっちの電話で知られる坂口恭平氏がこんなことを言っていた。

「自分の過去の作品のことは、自分の先生だと思うと良いですよ」


今日も色んな場所で色んな人が色んなものを作っている。どこか遠くにあるラインについて考える。向こうは元気かなあ。何ピクの太さで描くことだろう。

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