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世界一のホステル

ホームレスとジャンキーと哲学者と暮らすのが
こんなに心地いいとは知らなかった
「みんなで仲良く」が苦手だった私が
自分が属したいと思える集団が存在することを知ったのは
だいぶ大人になってからだった

世界一のホステル

私が世界一だと思うホステルが、インド西部のある街に存在する。その街はヒンドゥー教の聖地でありながら、大麻の非犯罪化や肉食禁止などヒッピー文化を地で行く特性により、世界中からのバックパッカーを魅了していた。そのホステルは街の中心部から徒歩圏内にあるものの、夜になればレイプと縄張りを張る野犬を心配して、トゥクトゥクを使うことを余儀なくされた。特にホステルの設備が素晴らしい訳ではなく、快適ではあったが、ドミトリーは簡素で最低限のものしか揃っていなかった。広い庭の真ん中に大きな焚火があって、夜はみんなそこで輪になって交流していた。非常にゆったりとした雰囲気が流れていて長期滞在者も多く、働いている人の多くがボランティアのバックパッカーで最小限のマネジメントしか行わないので、誰が働いていて誰がゲストなのか私もよく分かっていなかった。

こう聞くと何が良くて世界一なのかと疑問に思う人もいるだろう。しかし、普遍的には快適だとは言いづらいこのような特徴がある種のフィルターのように機能して、それでもここに泊まりたいと思う曲者だけが揃うのだ。一度そのような人が集まると、類は友を呼ぶ理論で同じような曲者が次々と集まってくる。このようにして、このホステルはちょっと変わった人たちを惹きつけるようになった。

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理解と共有

私は旅に出るまでは、自分が自分を曝け出して、心地よく暮らせるコミュニティに属したことがなかった。友達はそれなりにいたし、時間をかけて親友と呼べるようになった大切な存在もたくさんいる。しかし、いつも感じるのは、彼らはその海のように深い優しさから、一般的とは言い難い意見を持った私を、友達として「許容」してくれているのではないかということだ。彼らと一緒に過ごす時間は心から楽しいのだけれども、特に一対一でなくグループでの活動となると、どこかで自分を偽ってその時間を楽しもうとしていて、自分の核になる部分を曝け出せてないようで、漠然とした孤独感がずっと纏わりついていた。中には私の深い部分まで理解してくれる寛大な友人もいる。ここまで一般社会が苦手な私の考えに理解を示してくれているだけでも感謝しているし、実際このような友人たちには精神的に本当に支えられている。しかし彼らが示してくれているのは「理解」であって、それは「共感」ではない。いわば私を外部者として「許容」してくれているのであって、私は決してそのコミュニティの内部には属していない。おそらく彼らはそのような排他的な行動をとっている気はないだろうし、私もそれを攻撃的な態度で捉えてはいない。

しかし考えてもらいたい。例えば、犬派の人が猫派のコミュニティの中で犬の可愛さを語ったとする。猫派の人たちは犬の可愛さに「理解」を示してくれたとしても、彼らと一緒に犬の可愛さや犬を買う大変さ、体験談などを「共有」することは難しい。そうなると犬派の人は、犬好きだけが集まった犬派コミュニティを求めたくなるだろう。私の場合は自分が属したいコミュニティが犬なんていうメジャーなものではなくて、フクロモモンガとかキカンジューとかの珍しいものであったので、そのコミュニティにありつくまでに相当な時間がかかってしまった。

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初めて見つけた居場所

そんな私が見つけた居場所が、バックパッカー社会やヒッピーコミュニティだ。初めて私と全く同じ考えの人がいることに気づいた。そしてそのような考えを罪悪感なく持っていいことを初めて知った。正解がない問いに対して、「みんながそう言っているから」でなく「私がこう思うから」という理由で、自分の意見を怖がらずに発信できる喜びを学んだ。そしてその意見に賛同者がいる幸せを感じた。彼らは「理解」だけでなく「共感」してくれて、私は初めて自分が何かに属している感覚を得ることができた。自分が属したいコミュニティに属すことは、今までにない安心感を与えてくれた。

私が属したくて属していたコミュニティの一つが、冒頭に紹介したホステルだ。そこは私と同じような人や、私がついていけないと思うような強烈な人で溢れていた。家を持つことを諦めたホームレスや、ドラッグに明け暮れたジャンキー、そして現実世界から乖離した哲学者など、おそらく私よりも一般的なコミュニティに属することが大変であろう人たちがたくさん暮らしていた。彼らの極端な言動に振り回されることもあったけれど、それでもこのコミュニティで暮らすことは心地よかった。それは、自分より変わった人がいるというような他人を見下して得られる優越感からではなく、彼らほどの変わり者であっても、自分が自分でいることが認められているというコミュニティに対する安心感から生まれたものだった。

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このような曲者と暮らすことは、安心感だけでなくその他の副産物も与えてくれる。彼らは世間の多数派に背いて生きているが、彼らの多くは天邪鬼のように理由もなく少数派に属しているのではなく、多数派に流されない自身の強い意志や意見があるからこそ、結果的に少数派になるのだ。そのような自立的思考ができる人と暮らしていると、彼らに感化されて常識に囚われない自由な発想が得意になる。

さらに、世間一般から外れた道を生きる人は、程度の違いはあれ少数派であるというだけで世間から厳しい扱いを受けてきた人が多い。そのような辛い青年時代を過ごしてきた人たちは、決まってみんな強く優しいのだ。傷ついた者がみんな優しくなれるとは限らない。でも彼らの多くは、その傷を強さに変える行動力を持っている人たちだ。そうではなかったら、わざわざインドにまで来て、自分に合ったコミュニティを見つけることは不可能だ。

Small Bubble 

このホステルにいた人たちは皆、現実から逃げて自分に好ましいものしか見ていないという人もいるだろう。英語でLiving in a small bubble(小さな泡の中で生きている)という表現がある。日本語だと「井の中の蛙大海を知らず」が似た表現だろう。確かに私たちは、自分に心地のいい小さな泡の中で生きている。だけれども、孤独を感じないために、人との繋がりを求めるために選んだ泡が、他の泡と比べて少し小さくて閉鎖的だったとしても、それが心地よいのであればそれを否定する必要はないと思う。それに加えて、私たちは小さい泡に居続け、井の中から出なかった訳ではない。井の中から出たからこそ、新たな小さい快適な井を見つけることができたのだ。

追記
私の大切な日本にいる友達へ
もしこれを見ていて、嫌な気持ちになったらごめんね。でもいつもいつも私を理解してくれてありがとう。あなたを責めるつもりの文章では全くありません。都合のいいことを言うようだけれど、これからも私を許容し理解し続けてくれたら嬉しいです。

いただいたサポートは、将来世界一快適なホステル建設に使いたいと思っています。