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初めてギターでコピーした曲って覚えてますか?

ボクの場合、ザ・スターリンの「天プラ」である。しかもガットギターで。

ギターを買ったのは中2の冬だった。もちろんエレキギターは買えなかったのでモーリスの1万円のフォークギター。だがいきなり挫折する。

チューニングがわからない。
コードがわからない。たいていのひとはFで挫折するんだが、ボクはFまで到達する前に撃沈。
Emですよ。挫折の原因は。ローコードとハイコード、どっちを覚えりゃいいのと迷いに迷って諦めた。H2Oを華麗に弾き語る予定だったんだが。

念のため教則本を買うもなぜかスタレビの根本要と野口五郎とさだまさしが冒頭でギターの魅力について語りまくっている。「小さい頃からギターを自作してピックがわりにつまようじで弾いてましたね」(野口)。「ジェイムス・テイラーやポール・サイモンのアルバムを聴いてごらんよ。ギターの音がどれだけ素晴らしいかわかるから」(さだ)。うん・・それはそうなんでしょうが・・これじゃ参考にならないと教則本読むの諦めたっけ。

ゆえにしばらくボクのフォークギターは部屋のオブジェと化してしまった。高校入学時、かつてオリジナルラブの田島貴男氏も在籍したクラッシック・ギター部とは名ばかりの純正パンクスの巣窟へ(入部時点でまったくわかってなかった)入部を決意、なにもわからないボクに先輩は手ほどきしてくれた。

「いいかい?ここをこう押さえて、、そうそう。簡単なんだよね」(福島弁)
「こうですか?」
「そうそう。ゆっくりでいいからそのまんま上に下に動かして」
ボクは言われたとおりにした。すると突然叫んだ。
「天プラ!お前ら!カラッポ!」

ボクは困惑するしかなかった。なんだ?天プラって。
先輩は悪戯っぽく笑って答えた。
「ザ・スターリンの天プラって曲なんだよね。カッコいいだろ?」(福島弁)

大友克洋好きで宝島の愛読者。高校卒業後は辻料理専門学校へ進学したその先輩はとにかく日本のパンクロックが好きなひとだった。この先輩の影響でボクは初めて大友克洋を知る。部室に転がっていた「さよならにっぽん」や「気分はもう戦争」。そしてザ・スターリンにINU、町田町蔵。おかしい、、、ここはクラッシック・ギター部だよなあと思いつつ購買部で買った酪農カフェオレ(80円)を飲みながら大友克洋の漫画を読む日々。もちろん部室のラジカセから流れるのはザ・スターリン。「STOP THE JAP」や「虫」がラジカセ大音量で流れるクラッシック・ギター部。かなり異常なシチュエイションですよ!

なのでボクは禁じられた遊びやチムチムチェリーを弾くより先にザ・スターリンのリフを強制学習したことになる。ザ・スターリンがなんなのか、日本のパンクがどういうものかを理解する前に。

ザ・スターリン。遠藤ミチロウ率いる日本を代表するパンクバンド。上條淳士の「TO-Y」に出てくる遠藤ディレクターはおそらくミチロウがモデル(のはず)。ボクはガットギターを片手に日々練習し2ヶ月かかって「テンプラ」をマスターした。その頃にはあんなに意味不明だったコードのポジションもなんとなく理解し無事H2Oを華麗に弾けるようになった。名曲ですよね、「僕等のダイアリー」(ドラマ「翔んだカップル」主題歌)。

ギター部の同じ学年の安藤くんは極めて真面目そうなルックス、銀縁フレームのメガネがチャームポイントのガリ勉タイプの風貌だった。だがそれはぱっと見の印象だけでバキバキのメタル好きでガットギターでメタリカやアンスラックスを完コピ、この年RUN DMCが「WALK THIS WAY」でエアロスミスのスティーヴン・タイラーとジョー・ペリーがコラボした年でもあるが、ガットギターを抱えてその曲を弾きながらよく部室でシャウトしていた。どちらにせよボクにはない文脈の趣味であり、当時60年代のブリティッシュロックを偏愛していたボクからすれば安藤くんと出会わなければRUN DMCなど知らなかっただろう。つくづくひととの出会いってやつは大事。安藤くんは高1の秋にアン・ルイスのコピーバンドのリードギタリストを辞め、「受験に専念する」とバンド活動を一切辞めた。高校卒業後、大槻ケンヂの母校、東京国際大学に現役入学、風の噂ではプログレバンドを組んだとか組まないとか当時聞いた気がする。

クラッシック・ギター部という体裁でありながら、ドラムセットは常設、ギターアンプもあり、要するにバンドやろうぜな溜まり場だった。ドラムセットの持ち主はLARKマイルドをこよなく愛し和製フュージョン好きのドラマー菅野くん。「受験があるから本格的なバンドはやりたくないんだよね」(福島弁)と言ってたけど高3でECHOESのコピーバンドのドラマーに抜擢され「愛されたいと願っている」真夜中のロックンロール・ライダーたちの挽歌を奏でるはめとなった。部室で流れる大爆音のECHOES。そりゃボクも詳しくはなる。クラッシック・ギターの調べなど遠い彼方へ。ちなみに菅野くんは浅香唯のファンだった。そういや周りに斉藤由貴のファンって少なかったな。どうして?


向かいの吹奏楽部の副部長はベースを担当、チャリで15分の場所にある郡山女子高の子をヴォーカルにすえバンドを結成、アン・ルイスの「六本木心中」、レベッカの「フレンズ」、なぜかALFEEの「星空のディスタンス」をレパートリーにわざわざギター部までやってきてコピーに余念がなかった。ああ、なんてレパートリーだ。だせぇ、だっせえよ。郡山の新星堂上の貸ホールでライブやってたの見に行ったら例のメタルキッズの安藤くんが汗だくで「星空のディスタンス」ギターソロを熱演してたな。これがローカル80`sの真実だよ。

じゃあBOØWYは?どうなのって話になりますが当時人気がありすぎて逆に「簡単にコピーバンドを組んじゃいけない」って不文律が我が校にはありましてね。専門のコピーバンドが存在してたのよ。その名もバックドロップス。彼らはBOØWY解散と同時に方向性を変え、BUCK-TICK専門のバンドになった。そのあとはCOMPLEXね。いやあ実にわかりやすい。ちなみに福島県、当時はBOØWYを神聖なものを扱ってた気がしますね。だってドラムの高橋まことが福島県出身だから。福島駅前音楽祭なんてライブイベントもあったんですよ。「君もボウイの高橋まことになろう」ってキャッチコピーの地元アマチュアバンドの祭典ね。もちろん本人不在だから事務所未確認未公認イベントだったんだろうなあ。

ボクは高3で部長になり、渡辺美里ファンの生徒会長(男)を脅し、過去例がない(実績もないのに)年間部費をつりあげ健康的なバンド活動に勤しんだ。ちなみに高1の冬休みに温泉旅館に2週間泊まり込みバイトをしエレキギターは無事購入している。ザ・グッバイの曽我泰久を敬愛していたので同じ(似たような)モデルを4万円で購入したのだ。フェルナンデスのストラトキャスター。これは今でも押入れで眠っている。ちなみに生徒会長、自分のテーマソングが渡辺美里の「恋したっていいじゃない」だったな。会長、休み時間はいっつも美里の歌詞をノートに歌いながら書いてた。よりによって隣の席だったボクは洗脳される思いでしたよ。1日何回も「恋したっていいじゃない」を熱唱するのを耳にするわけです。ちなみに男子校だったんですけどね。

そんな基本ボンクラな日々を送っていたボク自身がそもそもバンドってやつを意識したのはいつ頃だったんだろうか。ボクの場合やっぱり欽ちゃんですよ。それも「欽ちゃんの週刊欽曜日」。視聴率100%男と言われていた時期の欽ちゃん番組の中で一番好きだった。

ボクが覚えているのは吉田拓郎がほんとに「勘弁してよ、、」なノリでゲストに登場し、「欽ちゃんバンドの曲を作ってくれ」と萩本が迫るシーンは忘れられない。そして出来上がったのが風見しんごのデビュー曲「僕笑っちゃいます」だ。個人的には2ndシングル「泣いちっちマイハート」(バックダンサーはクロコとグレコ、小堺一機と関根勤)のほうが出来がいいと思っていた。ボクが吉田拓郎なる存在を知ったのはコレなんだな。フォークがどうとかニューミュージックがどうとかまったく知識がなかった頃だもんね。ちなみに初めて聞いたのは「旧友再会フォーエバーヤング」って曲でした。

ちなみに明星歌本で近田春夫氏がベタ褒めしてたのは3枚目のシングル「そこの彼女」。風見は1枚目のシングルこそ売れたが以後下降線を辿り(それでも自身の洋楽志向はスタイルカウンシル好きとかをアピールし続けていた)起死回生の一発となったのが「涙のtake a chance」だった・・ってなんで風見しんごについて語ってるんでしょうかね、ボクは。本題戻りますよ!


ネットなきあの時代に超絶田舎に住んでいると立ち遅れるんですよ。恐ろしいことにボクが動くサザンオールスターズを観たのは(テレビで)「チャコの海岸物語」でザ・ベストテン1位になったときだしゴダイゴやツイスト、もんた&ブラザーズをリアルタイムで観た記憶がない。横浜銀蝿となるとヤンキー体質の東北の地だと「これは近寄ってはいけないんじゃないか」と自衛本能が働き触れておらず、だいたいTHE MODSの「激しい雨が」がカセットテープのCMに起用、「いいな」と思ったけどレコジャケ見ると革ジャン着てるじゃんと。触れると不良になるんじゃないかとまたもや自衛本能。そうやってボクは自ら新しい音楽との出会いを遠ざけていた。今週の話題曲で「ザ・トップテン」に出演してたけどあの無愛想さと客のコール&レスポンスの激しさにブラウン管の前でボクは怖れ慄いていた。初めてギターでコピーしたのがザ・スターリンの「天プラ」のくせにね。


とまあ、自分の音楽歴を振り返れば振り返るほどに恥ずかしいなあと思うわけで。学校帰りに御茶ノ水のジャニスとかちょっと電車で渋谷で降りてタワレコ覗いてみる?みたいな東京ライフに憧れましたよね。PARCOも初めて行ったのは松山のPARCOですよ。初めて渋谷のZEST行ったときどれだけ緊張したか。真夜中六本木の青山ブックセンターに足を踏み入れたときもそうだったな。

今でも時折ボクの脳裏をスターリンの音楽が蘇ることがある。もはや「禁じられた遊び」のアルペジオすら怪しいボクですが「天プラ」のリフは身体に染みついてしまってるので忘れることはない。

YouTubeとかで当時観ることができなかったテレビ番組を見つけることがある。西城秀樹が司会してた時代の「モーニングサラダ」とかテレビ東京の「おはスタ」、あとTBSの「ドーナツ6」。深夜番組だと「冗談画報」か。もちろん「オールナイト・フジ」は未OAエリアなので松本明子のMC事件など知る由もない。とんねるずの野坂昭如との経緯は週プレかGOROかなんかの特集で初めて知った。


もしボクが東京で中学、高校と過ごすことができたら人生変わっていたんだろうか。週刊少年ジャンプも発売日に買えて「夕やけニャンニャン」もちゃんと観れて(福島エリアでOAスタートは86年春でなんと河合その子、なかじ卒業タイミング)深夜ドラマ「トライアングルブルー」も観れたのかな。好きだったアイドルの握手会も躊躇なく参加しライブハウスにも通えてたんだろうか。

もしボクが東京在住だったら。初めてコピーしたのがザ・スターリンの「天プラ」じゃなかっただろうか。いや案外リアルに新宿ロフトとか通ってたかもね。わかんないけどさ笑。

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