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ボクの尾崎豊ライフ(一瞬だけど)


とりあえず、今日はなんでもないやつを書こうと思う。
きわめつけの駄文。とりとめのない文章。

尾崎豊を聴いて、Gジャンを買った。
そして1ヶ月もたたないうちにファンをやめた。
理由は特にない。


「17歳の地図」でデビューし、雑誌「PATi-PATi」に連載されていたデビュー前から現在に至るインサイド・ストーリーはどんぴしゃ中学〜高校生男子のハートを鷲掴みだった。青山学院高等部を中退ってのもぐっとくるし、当時すでに全国的に影響力を誇っていたSDオーデションをすっぽかすってのもリアルでいいじゃないですか。そして極めつけは「卒業」ですよ。

ミュージックビデオはプールでまじ溺れるんじゃないか的なカットだし、「卒業」が収録されてるアルバム「回帰線」のアートワークは断崖絶壁によじのぼってるかのように見える絶対絶命感。そして6分40秒っていう曲の長さで12インチオンリーでの販売ってのもヤバいなと思った。どこまで計算されていたのかはわからないけど15歳だったボクには突き刺さった。ほんの一瞬だけども。

さてボクはどうしてGジャンまで買ったのに尾崎に夢中になれなかったのか。もちろん夜の校舎、窓ガラス壊してまわる勇気がないってのもある。「卒業」以外、どうにも世界に入ることが出来なかったのだ。
実はそういうひと、多かったんじゃないかな。

嫌悪感とも違う。要するにボクには「十七のしゃがれたブルース」もなく夢見がちなだけで特にセンチなため息もついてなかったからかなあと。
17の頃、なにやってたかって相原コージ読んでたなあ。
「ぎゃぐまげどん」と「文化人類ぎゃぐ」、「コージ苑」の三連打にヤラれた。「きまぐれオレンジロード」が最終回を迎えたのもこの年だ。
あ、それと渡辺満里奈がファンだってことで大江千里を聞いてたな。「Avec」はフェイバリットアルバムだし「Olympic」は発売日に買った。ちなみに大江が渡辺に提供した「ちいさなBreakin' my heart」は名曲。
デビュー曲「深呼吸して」はLOOKの山本はるきち作曲。Epicソニーのこういうレーベルメイト戦略、好きだったな。いずれにせよ、しゃがれたブルースからはほど遠い日常だった。


まあボクのファン履歴はさておき。

思うに、尾崎のファンって基本真面目なひとが多かった(気がする)。普段はどっちかというとカタい上司がカラオケ行ってMC含めてステージアクション完コピしながら「Freeze Moon」を歌う光景、何度目撃しただろう。目の前でなりきり尾崎の「Freeze Moon」を聞かされれば距離感はさらに広がるじゃないですか。こういう場合、似てるか似てないかは問題じゃない。

あくまで以下はボクの推測にすぎないんだけど、尾崎に真面目にハマった方々は同時代へのカルチャーへの接し方も生真面目だったんじゃないかなと。対して、ボクのようなEpicユーザーへ軽く舵を切っちゃう方々は大江千里、松岡秀明、岡村靖幸、もしくはストリートスライダーズ、バービーボーイズといったバンド系、あとは渡辺美里、TMネットワークの黄金ゾーン。流行り物に(いい意味で)弱いというか、アンテナが敏感すぎるというか、元Epicユーザーって、割と渋谷系へ移行も楽だったんじゃないかなあ。


尾崎が亡くなったと報道があったその日のことを思い出してみる。

ボクが所属していた音楽サークルには溜まり場にしている下宿があって、そいつの家は4畳半一間だが、ゴミは何ヶ月も捨てられずそのまま放置、年中出しっぱなしにしてあるコタツのまわりは様々なゴミに埋もれ、もはや何層に渡っているかわからない。衣服も教科書も雑誌もCDもそのゴミ山に埋もれている。それでもそいつの下宿は溜まり場だった。もはや土足じゃないと危険で入れない。安全なのは出しっぱなしのコタツのテーブルと押入れのみ。そいつはいつもゴミに埋もれるように眠っていた。何ヶ月も捨てられてないゴミが山積み(もちろんコンビニ弁当の食べ残しもあった)ので異臭もしていただろう。だが、もはやボクらは鈍感になっていた。なぜかそいつの家に引き寄せられるようにたまっていたのだ。もちろんCDラジカセも埋もれがちだったので探すのもひと苦労だったが、夜な夜なロッキンオンがオススメするアーティストのCDを爆音でかけていた。ストーンローゼズ、シャーラタンズにインスパイラル・カーペッツ、ハッピーマンデーズもそうだった。一昨年かにローリングストーンズ展に行ったとき、デビュー前のメンバーが住んでいた部屋が再現されていたけど、あれがもっとひどくなった感じ。なんだろうな、ゴミの山を踏みつけながら移動する微妙な気持ちは実際にやってみないとわからないもんですよ。

さて尾崎の死をして、なんとなく異臭漂う溜まり場へボクは足を運んだ。予想通り、何人かが集まってゴミに埋もれながら麻雀をしていた。
「尾崎、死んだみたいだよ」
ボクがそう言うと一瞬、麻雀で淀んでいた場の空気が止まった気がした。

ゴミ山に埋もれるように置かれているCDラジカセは真心ブラザーズの倉持陽一が前年に出したソロアルバム「倉持の魂」がかけっぱなし。ちなみにこのアルバム、ジャケが山田芳裕(漫画家)である。まだモーニング系の雑誌で「しわあせ」とか「やぁ!」を描いてた頃でヤングサンデーで「デカスロン」連載前。とにかく倉持の倦怠感ある、でも力強い声が場の空気を支配する。流れていたのは「あたたかい僕の部屋」って曲だったか、「いきあたりばったり」か。

「そうなんだ。最近聞いてなかったな」

ひとりがそう言った。

「うん。俺は「街路樹」あたりまでだな、聞いてたの。あ、それロンね」

「俺は苦手だったなー。浜田省吾のほうが好き」


話はそれで終わった。ボクもカバンに入れていたロッキンオン・ジャパンを取り出し、部屋の安全ゾーンを探して読み始めた。たしか甲本ヒロトが表紙だった。まだ大判だった頃のロッキンオン・ジャパン。L⇆Rがすでに激推し枠だったな。尾崎の追悼記事が掲載されるのは次号で表紙はZIGGYだった。

92年、ボクは大学四回生。
オリジナルラブはこの年の5月に「結晶」という傑作アルバムをリリース、ボクはこの年の4月に発売されたばかりのフリッパーズギター「on PLEASURE BENT」ばかりを聞いていた。彼らは前年に解散したばっかりだった。ネットも普及していないこの時代、情報源として雑誌は力強い存在だった。フリッパーズ解散後の2人の動向はまだ具体的には見えていなかった。


なんとなく閉塞感がある春だったことはやけに覚えている。
さて、どうしようか。
毎日そんなことばかり考えていた。

92年の1月クールで始まっていたのが「愛という名のもとに」というドラマだった。主題歌は浜田省吾「悲しみは雪のように」。4月クールの月9は「素顔のままで」で主演は安田成美と中森明菜。主題歌は米米クラブ「君がいるだけで」。まだフジテレビがむちゃくちゃ元気で新しいものを世に送り出すという空気が関西に住んでいる自分にもじゅうぶん伝わった。

とりあえず、ボクが思ってたのはこのゴミだらけの溜まり場に居続けることはやめておこうということだった。

尾崎は死んだ。大江千里は80年代後半から役者としての活動も始めており、この前年リリースした「格好悪いふられ方」はオリコン2位の大ヒット、この年の10月クールでは「十年愛」に出演、シット深い男を熱演していた。岡村靖幸は90年に「家庭教師」を発売後、リリースが滞るようになるがこの年にはCHARAをゲストに迎えた「パラシュート★ガール」をリリースしている。
ストリートスライダーズはこの時期活動休止中だった。

なにかしら強烈な遠心力を持つものに巻き込まれたかった気がする。その中心にいるかどうかはさておき。


そしてボクはこのゴミだらけの溜まり場にこの日以来足を踏み入れることはなかった。萩本欽一のもとに脚本(しかも手書き)を持参しアタックするのは翌年のことである。


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