散文詩 散華(2010年)

「口を開けて」――そう合図してから、それぞれがまだ気丈にそそりたっている歯並びを見つめた、いとおしいかけがえのない歯並び、ためすがめつ口をついてでていく、水の性質を借り受けたように透明になって、どこまでも低いところにしみこんで行く言葉、透明さを求めることのおぞましさを僕は透明に語り、光でできた雪が丸くなって句読点のように佇んでいるその唇から虚ろな対象になって拡散していくものの根源を探した、そこは夜だった、とても精緻に造られた花嫁を模した人形、その二の腕の間接だけが、水が退いた後の排水溝に浮かび上がる、研ぎ澄まされた葉むらの中にうごめく青白い気配に体中を草花の汁で塗りたくって隠れた、それでも水蒸気が逃げていく、葉脈たちの隙間から混ざり合っては醸し出されて、その辺りの獣たちの匂いと同じねと彼女はつぶやいた、その瞳は水溜りの中に口を開けているとても深い谷間に注がれていた、いつしか水の代わりに塩だけが流れていく河のほとりで、いつまでもいつまでも涙を流していく黒い石にしがみついたまま気を失った、誰も気付かない、谷も、木の葉も、天国の実在と不在の両方を交互に暗示する、振り子式の柱時計のように淡い色をしたアメジストの原石みたいに懐かしい、水脹れみたいに夕昏れていく碧い空さえ気付かない、水の代わりに虹だけが、流れる小川が空に架かって、山の手に上る、曲がりくねった坂道の脇で、今まで目にしていた街が、子供のころの、夢にでてきた化粧をまとって、浮かび上がってくるのを見つめる、そこにはきっと子供たちを別の世界に連れ込んでいこうとする妖精たちが住んでいる、生殖も交尾もない世界、暴力も憎しみもない、それなのにノイズしか聴こえない、それなのに砂嵐しか見えない、死ぬのが怖いと彼女は何度もメールに書き込んだ、泡沫の中で、確かなものが溶けていく、そう彼女は僕を殺したいほど憎んでいると思っていた、歯を洗って、目を洗って、耳を洗って、待っている、何を?きみの瞳に投影された憎しみの、幻覚の向こうで、血を流すことができれば正しくなれるのかしらといつか言った、とても綺麗な水溜りがそこにある、甦る、ということについてのいかなる定義も気にしない、暴力が、二人を夢から醒まして、閉じ込められていた事に気付かせるまで――「瞳の中に潜む輝きの角度が幸運にもきみの味方をした」――「いつか雪のように白い水晶の薔薇の花をはなむけの言葉で幾重にも結わえてその耳の奥で眠っている美しい場所にまで翳したかった」――「揺らすとすべての儚さをうながす紺碧の宝石が誰の生死を肯っているのか、祝っているのか知りたいと思った」――塩の味がする海が暁を宿らせたままで眼前に広がっている、その場所を、その先を見たいとせがんだ、――「膨張していく水を光で閉じ込めて境界にしたみたいに、その顔を洗われた誰かの空が誰かの肌の色のように白く白く広がっていた」――ほのかな紅味がさしたまま――「きれいだねって、言うと笑った」――「そこから先に、行きたいと思った、そこから先に、行けると思った」――海を見渡せる崖の斜面に咲いている、白い桜の樹の花びらが、風に舞っては、しだいしだいに燃え上がり、水面で輝く春の陽射しに、あざやかに、自殺していく歌を歌って、溶けていくのを――「銀色の欄干に手をかけたまま、ぼくは一人で、いつまでも見ていた」

(2010年)

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