小説 調布市の野川のスケッチ(2006年)

 昼下がりは、真鍮のような静寂を、空の青みと水音のせせらぎにそえあわせながら、自分ではどんどん希薄になって、遠のいていくようだった。気持ちだけ少し伸び過ぎた、目の前の前髪は、陽光のせいで軽やかに化学変化して、きらきらきらきら、光耀していた。まるでのどやかな温度がやわらかいうすものに変化して、あたりをつつみこんでくれているようだった。そうして、仕事の疲労に困憊しきっている、ほこりまみれのわたしの体は、ひとりでにうるおいを取り戻していき、しなやかな湿り気を、そこらじゅうから摂取しながら、しっとりしっとり、くつろいでいくのだった。

 水面には、河沿いの住宅街や、伸び放題の雑草たちが、かすかに色褪せている紺碧のタブローを背景にして、陰りを引き連れ揺れていた――その向こうでは、油絵具で描いたような、雲の偉大な建築物たちが、水鏡のなかに自分の姿をうつしだしていた。これらの超歴史的な造形芸術たちの没個性的な集団は、そろいもそろって大量の水蒸気やら氷の粒子やらで組成され、それぞれの厚みと色むらを、おおらかな冷たさを、思い思いの形のうごきを、各々の全身でおだやかに表現しながら、微々たる速さで流れ流され、うすっぺらになったわたしの感受性があたり一面に張り巡らされているこの空間を、いつともいわずにゆきすぎていくのだった。

 せせらぎは、しゃわらしゃわらと、さらさらと、場所によってはぴりらぴりらと、小声になったり、大きくなったり、唐突に急き込んだり、間延びになったりして――いわば手を変え品を変え、地形に合わせてはしゃいでふざけて、口を揃えて、合唱していた。河幅が狭まって、なだらかな傾斜を象るあたりでは、敷き詰められた不揃いな石たちや、特に水面から顔をのぞかせている大きめの石たちのせいで、水襞はやさしくうねりかえして、あぶく混じりの白い水脈を曳いて流れていた。水音たちの子どもじみたささやかなさえずりも、そこでは重層的なアクセントをつけられて、とりどりの形で、ひびいて聴こえた。小石たちが、水際にしずかな網目模様をつくって、その目その目のひとつひとつは、秋の景色の表情豊かな装いに、そっと抱き合い眠りこけているかのようだった。ところどころで、アメンボたちの四肢たちが、ひょんひょんと音でもたてるかのように、つぎつぎに跳躍し、その都度ごとに、軽い波紋の同心円が、これらの小さな昆虫たちの足先を、うけいれるみたいにふわっと開いていくのだった。あたかもそれは、水でつくった花の蕾が裂きほころんでは、そのまましずかに消えて行くのを、見るようだった。

 二匹の蝶が、追いかけっこをするように、気まぐれに波打つ軌道を描いて、時間と空間とを縫いあわせていった。何かの魚が、踵を返すようにして跳ね上がり、自分たちの、てらてらしている白い腹部を、見せびらかしては、ひらめきみたいにぱしゃりと消えた。

 そうして後には静寂だけが、写真みたいに――記憶のどこかに残されているのだった。

(2006年頃に書き始めて2010年ごろ完成)

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