小説 クラムチャウダー(2007年)

 新発見のアメーバみたいにひらべったい油の膜が浮き上がって、ぶよぶよに固まってしまった表面を震わせている、クラムチャウダーの水面に、焦げ茶色の枯葉が浮いている幻覚をみた途端、彼女の朝の食事は台無しになった。不愉快になった彼女の内面はタールのように真っ黒に変色して液状化してしまうのだった。そして何分経っても、何十分経っても、何時間経っても、液状化の勢いは止まなかったので、彼女はすっかりタールのような液体になって部屋を浸食してしまった。それは拡大し部屋中を自分で浸した。そればかりではなく家じゅうを、そればかりではなくその家の通りを、そればかりはなく街中を浸してしまうのだった。そして彼女は国全体を自分で浸食してしまい、森や山地も浸食し、ついには港までたどりついたあと、海にまで注ぐのだった。海はそうして真っ黒になった。その後のことは面倒なので省略するが、ともあれ国中は黒い洪水に覆われてしまった。

 かつてこの大災害を体験したことのある情報筋の人の話によると、なんでも一旦こうなってしまうと、水が引くまでだいたい3日くらいかかるらしかった。そうして、実際正味3日で、だいたいもとの通りにもどるのだった。だがあまりにも規模が大きかったので、大勢の人間と動物と植物と自動車と街がこの黒い水によって沈んでしまうのだった。とはいえ他の人的には全体的にはそんなに心配する必要はなかった。なぜなら真っ黒になって液状化してしまうのは、先ほど書いた通り、彼女の内面の方であって、そして内面は目に見えないものだったからだ。彼女の内面的には国中が墨汁に浸かったように真っ黒にはなったのだが、他人の内面を物理的な現実としてリアルに共有できる人間や動物や植物や自動車や街などはめったにないのである。だから大勢の人間にとっても動物にとっても植物にとっても自動車にとっても街にとっても、主観的にはいつも通りでかわらなかったのだ。

 では彼女自身はといえばどうだったろうか、大丈夫だったのだろうか?とりあえず大丈夫だったらしい。そういう時が来るたびに、つまりは国中を大洪水に陥れるたびに、彼女はいつでも、国中を主観的に黒く水没させてしまい暗黒の世界に変えてしまうことで、さしあたっては満足した、そして、この黒い宇宙の向こう岸に無限のように広がる見知らぬ森でーー想像力と抽象能力とが自動的に織り成してくれる非現実的で透明な森で、鮮明なトパーズ色の枯葉たちの敷き詰められている足元をぱりぱりとふみしめながら、瑞々しいその音を楽しんでいるのだった。

 彼女は見上げる、枯葉たちははらはらと落ちてくる、それで彼女は広葉樹林に覆われている秋色の天井を仰ぎ視ながら歩いたりスキップしたり踊ったりして遊んだ、だがあんまり踊るのに夢中になっていると、時々すてんと転びそうになったり、唐突にウドの大木にぶつかって気絶したりするっていう、つまりはそういう寸法だった。そうして気絶しているうちにそのまま3日間が経過してしまうって、要はそういう寸法なのだったーーそしたらそのあとはすべてが夢で、すべては幻だったとわかるのだ。国中は客観的にも彼女の内面的にも平和が戻った。そして彼女は、普段通りの明晰な意識を、取り戻すのだった。

(2007年ごろ執筆、2018年完成)

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