散文詩 26(2010年)

あの時みたいに、信じていたことがすべて嘘だったとでも言いかねないような色艶のなさで、灰色の石みたいな声できみに話しかける日が来るのが怖いと感じられる相手に出会ったというのならそれは、幸福という言葉を通り越して、静かな切なさの水の中に浸されたやすらぎの言葉の表面にまで、潜っていってもいいような、落ち着いた心地で、どうしてあんなに海が怖くて、水が怖くて、どうして泳ぐことができなかったのか、今は昔よりもずっと素直に、手にとって、その音に耳を澄ませることができる、しずかに内部をほんのりと光らせている群青色の小石たちが敷き詰められた河原、平家蛍みたいに明滅していく魂、一切が名前のない墓標でできているみたいに透き通って、目に見えるものたちのすべての後ろに、美しいものを美しく見させていかれる亡霊のようなものが、通交していく暗闇が開かれ、それはこの僕の人格に限定された、肉体のたしかさの感覚の中にさえ、見通せる気がする、細々と曲がりくねっている駅前の舗装道路に人々の足取りが野生の動物みたいに行き交いはじめる、いつでも当たり前に、多分それだけ無垢な様子で

――7月4日、今は5時9分だ、26歳も後数ヶ月で終わる、そしてきっと一瞬だった、本当にあっと言う間だった、生まれてきてからこの場所に来るまで、それはきっと最期までそうだろう、だから、ここにこうして、ここにいるのは、どんな偶然さえ、気にしない、ひとつの大きな必然みたいな気にさせられる、まるで一粒の砂のように、あまりにもたやすく風に吹かれて、気付いた時には、もう目に付かない――けれどもたしかにそこにあるんだ、言葉で表すことのできる出来事の鎖、新しくほどけて、もう取り戻せることもない――時間というものがどんなやりかたで過ぎていくのか、そう、今になってから、漸く分かった、窓の向こう、たちこめてきた陽射しの下で、シャッターの閉まった商店街の埃っぽく薄汚れている建物たちが無造作に立ち並ぶ表通りを見つめる、肉体、誰もが母親の胎から生まれ、年をとって、大きくなって、次第に衰え、小さくなっていく、アルゴリズムにしたがって生きる、そして死ぬ、感情や思考、直感や意識、外から見れば、単なるニュアンスの集合のようにしか見えない、人の中にも物質の中にも、霊魂なんて存在しないのだろう、そうでなければ、「すべて」にあって、移り変わって、流れ込んでいくことができるだけなのかもしれない、この社会を構成している人々の感性に、この時空間の中に、夜明け前、という概念が目覚めて、人々がぽつぽつと歩き始めている、駅に向かって、集まって、そうして散らばる、どこかに向かって、でも僕は、いつまでもいつまでも消えることのない、夜の暗がりのカーテンの下で、取り巻かれたままここにいるような気がする、肉体に寄生した様々なヴィジョンの泡の中で、溺れながら、いつまでも同じ、ずっとひとつのものを捜し求めていたような気がする、そう、自分自身で選んだことだと言い聞かせた、それは何て美しい言葉だったろう、言葉というのは何て美しいのだろう、真昼の中でさえ夜にしか見えない、暗がりに囲まれ、光の原子を集めてつくった箱庭の中で、生きているみたいに

――そう、今は自分を、いとおしく感じる、自分の体をこんなにも確かに、縋りつくものも何もない、幼い傷ついたけものの体みたいに――それは自分が、いつか必ずいなくなるからだ、この空間から、この宇宙から――予感ではなく、知っている、そして覚えている、凍傷にかかって、冷たすぎる水がみぞおちの中をいつまでも通り過ぎていくみたいに、ちぎれてしまいそうになる腸を感じた、断続的に、夜の暗さが、灰色の風のように脳裏を掠めていった、その時も、無意識のうちにきっと知っていた――きみは自分が何を求めていたのかを僕を通して知った、最後に会った時、僕は灰色の石のようだったから、きみはかつて自分がどういう風に見えていたのかを知ることができた、そうでなければ、いつか離れることを決意した、僕と同じ言葉をかけることはできなかった筈だから――誰もが全てのことを全てのように知っている、それなのに決して分かりあうことがない、それは確かめることができないからだ、不揃いな姿で、ひとつになれないということ、誰も「全て」にはなれないということ、そのことさえも、全てみたいに、告げている――その断言の、厳しさのせいで、光り輝く、雪の中にいるような気がする、夜の中にいると同時に、雪の中にいるような気がする――真っ白な世界で、なにもない、と、口にするということ、広がりだけが、ゆるされている、ということ、それにしてもなんて冷たい7月だろう

――今僕は夜明けの始まる街の駅前の通りを見渡せる、ある店のカウンターに座ってこの長い、小説とも詩とも手紙ともつかない言葉の流れを書き連ねている、だけれど同時に、差し込んでくる光を浴びては、真水のように、透明に輝く、血の文字の書かれた墓標が静かに立ち並んでいる、群青色の河原を、いつか誰かと歩いていたのを思い出している、梅雨の季節が終われば夏が来るだろう、だけれど、この夢の中では、美しい雪が、いつまでもいつまでも降っている、この世界では、言葉の中では、光の吹雪にたしなめられて、身の振り方を忘れてしまったあの夜の事を思い返して、思い付く事も、押し隠すことも、取り繕うことさえもなくなった、とても低い場所にまで降りてくる、花曇の空に見下ろされている、その内側に薄桃色や、エメラルド色の光を閉じ込めている、コバルトブルーの色をした、軟らかい小石たちが、いつまでいつまでも、敷き詰められている河原の、ほっそりとしている、赤い結晶たちがやさしく花咲いている土手の向こうに、白っぽい光が幾筋も、かすかなしっぽをたなびかせながら泳いでいるのを、ずっとみていた、追いかけていた、ここにいる限りはいつまでも、知ることのできないことについて、僕は考える、いつか必ず、僕はここから、いなくなるから

――きみも、これらの言葉に耳を澄まして聴いている、あなたも、必ず、どこかで、いつか、儚さの中で、身の置き所のない場所で、風に混ざって、同じ姿で戻ることもなく、追いかけることもできずに、途絶えていって、消えるのだろう、朝を迎えるこの路地を、形作っている全ての物質が、すべての形が、輪郭や重みが、この僕のことを置き去りにしてどこかへ向かって飛び立っていくのを目の当たりにしながら、あの懐かしいくらいに恐ろしい、恐怖そのものの顔をしていた、夜のことを考える、やすらかな乱気流の中で、自分自身のあて先を、歌うように告げている、目には見えない手紙のように、風の中でひたむきにゆれている、名もない花々、名づけることもできないせいで、自分を預けることもできない、誰かを助けることもできない、きれいにはなむけていくこともできずに、溢れ出ていく言葉の中に、自分の体が埋もれていくのを、受け入れたまま――散りしかれていくのを待っている、いつか必ずこの僕が、息を引き取り消えていく朝にも――よく考えた、きみはもう死んでしまったんじゃないかと、僕が憎んだ、そのことのせいで、まるで本気でそう考えることで、自分の願いが聞き届けられるとでも、無意識のうちに信じているみたいだった、その時も、二度と償うことのできない夜を見ていた、憶えている、それは何て美しい言葉だったろう、言葉というのは何て美しかったのだろう、無表情のうちに、奇跡みたいに、いつまでも紡がれ、そこにもここにもなかった嘘を、真実みたいに、信じ込ませて、いつまでも終わらない、いつまでも終わりがない、それなのに、僕たちは、必ずここから、いなくなるということを、知っている、何も分からず、しだいしだいに、たちこめてくる、言葉を知らない世界の夜を、こんなにも間近に、意識しながら、例外もなしに

――けれども、そのことではじめて僕たちは、「僕たち」という言葉をさえ、口にすることができる、そう、いつか、信じた言葉の全てが嘘だったとでも、言いかねないような色艶のなさでもって、すべてが灰色の中に崩れ落ちていく、明け方の街を歩いていた時でさえ、待たされていないものなんてなかった、欲しがっていないものなんてなかった――だからもう一度、愛するだろう、きみのことを、喪われていく記憶のことを、彼女のことを、誰かのことを――いつか、自分自身が消えていくのを、知っている、この夜の向こうで――全ての嘆きが尽き果てた真昼に、消えた言葉の後味を、思い返して泣く人のことを――うなだれた体の、その体温の、確かな重みをかかえたままで――それでも何かを待っている、言葉にならない、ひとつの言葉を待っている――あなたのことを、愛するだろう。

(2010年)

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