小説 採血管と泡の幻覚(2003年)

 採血管は、血小板や白血球や赤血球を抜き取っていった。意識も知覚も抜き取っていった。するとどこかの中庭で、仲良く並んで咲いている百合の花やアネモネの花、スミレ色をしているアヤメの花々の光景が、自分と他人の境界も、遠近法もまとまりの良さも、なくしてしまった格好で、陽炎みたいに、もやっもやっと淡くなったり、そうかと思えばさあっさあっと、鮮明になったり、ゼリーみたいにぶよぶよしていた。両手はたちまち針の跡で一杯になり、ある種の病人にしばしば見られる不健康な快活さのように、紫色のほのかさに変わって、どんどんどんどん冷たくなった。黒々しているまどろみの奥の、どんよりしているやわらかさの中で、意識はしだいにうすらいでいった。

 気の遠くなっていく寸前の昏迷状態の中で、「あなたお酒に弱い性質でしょう?」という若い看護婦の声が聞こえた。そしたらどこかで、こころなしか灰色っぽさがどことなく混ざり込んだような、あやふやな白色で被われている、病室たちの仲良く並んだ、細長い廊下を、一陣の風が、びゅうううっとわたって、通っていった。

 すると、淀んだ季節は、のけぞるように晴れ上がっていった。窓の外では、すずしげな緑色たちがわさわさと動きはじめ、自分の内側にまで浸透してくる光の強さに、体をぶるぶる震わせていた。そうしてどこか病的に、みんな発色がよくなるのが分かった。葉の肉質も、人の顔色も、バッタや虫の、甲羅の色も、蝶や雀の、蜂や羽虫の羽根たちの色も。

 それはどこか、過呼吸症候群になった人たち、内なる生命力の燃焼といった風情の、あざやかな色彩感覚だった。どこか春らしい、桃の花の匂いや桜の花の匂いをかすかに薫らせてくれるかのような、なにかとても高い声で子どもが「ひー!」とか「きー!」とか思わず叫んでしまいそうな、どこか神経過敏な爽やかさだった。

 そう、春だったので、春らしく、ここから途方もなく高い地平に広がる蒼い海の、そこら一面から、何千何万もの、大小さまざまの泡たちの大群が、あたかも水平線を埋め尽くさんばかりに、ふわわふわわと、昇っていくのがうっすらと見えた。七色に、眠たい瞼をこすり合わせるとあたりがすっきりしていくような様子で立ち上がり、彼らは透き通った輪郭の中に、思い思いの大きさの青色を、空と海とを閉じ込めていた。――くにゃくにゃ自分をへこませていた、なおかつやっぱり、ふわふわしていた。ふわふわふわふわ、目的もなしに、ただただ、のぼっていくことその事自体が、最後の目的みたいな様子で、ひたすら上昇していくのだった。

 このきわめて清潔な、あたかも目も醒めるくらいに清らかで、同時にあやふやな油色を、ようようと浮かべた球体どもは、だいたいにおいては、十中八九は、風だとか、引力と斥力のバランスだとか、その場その場の思いつきにまかせて、およよおよよと体を震わせ、一心不乱に、狂ったように、訳もわからず笑っていたり、泣いていたり、わめいているのがほとんどだった。
――けれどもそれでも、小さいやつらは、まったくほんとに不憫なやつらで、ずいぶんずいぶんご愁傷さまだった。というのは、自分の体が、自分の体というやつが、あんまりあんまり小さいもんだから、風がびゅうびゅう吹きつけてきたり、大きな奴らの真似をして、無理して自分でも笑おうとすると、泣こうとすると、わめこうとすると――そしたらたちまち、膨張しすぎたまるい体は、すぐさますぐさま破裂して、ぴちゃん!と一声鳴いたかと思うや、もっと小さな、いっそう小さな雫になって、窓の向こうの中庭の、ハギやつつじやサカキやツゲの、それぞれ立派な葉や花びらを、ぴとぴた、ぴとぴた、濡らすのだった。

 そうして、そうして、二度と醒めない眠りの深みに、るるりる、りりる、とすべっていって、それからそのうち、午後の陽射しに温められると、体をなくして、もといた場所に、もどっていって、向こうの世界で、歌を歌ったり踊ったり、変な顔して遊ぶのだった。次こそは、もっと上手に体を震わせ、およよ、およよ、よよよよ、およよと・・・笑えるように、なるために。

(2003年頃から書き始めて2011年に完成)

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