小説 20歳(2003年)

 秋爾(しゅうじ)は自分の棲んでいるアパートの廻りを、うつむき加減で歩いていた。――今彼の目には、敷き詰められているコンクリートが映っていた。けれどもそのコンクリートの表面は、血走った瞳をつけた、巨大な肉食の紫陽花みたいに隆起していた。まざまざと、目の前に縋り付いてくるみたいに。やんわりと自分の周囲でうごめいているものたちの気配を感じながら、秋爾はそのまま、ひたむきに歩いた。

近所の月極駐車場の一角に来てみた。するとそこでは白灰色のつぶらな砂利たちが、満面にばらまかれていたのだが、そういう地面のすがたかたちは、秋爾の脳髄を鷲掴みにして、ぐにゃぐにゃぐにゃぐにゃこねくり回した。それで秋爾は、魅入られたようにその場所に何時間も立ち竦んでいた。砂利粒の一つが、端から端の一角に至るまで、その輪郭を明瞭に浮き上がらせたままでびっしりと蝟集していた。こめかみのあたりで、唸り声を出さずにはいられないような、むわっとしてくる圧迫感が、大口を開いて、こっちを見ていた。

――それともこっちの声を、声にならない自分の声を、飲み込むように聴いているのだろうか。――そうして、開いた口の、洞穴の中には、しわくちゃの顔をした、大勢の小人たちが住んでいるのが秋爾には見えた。彼らはこっちの方を指差していた。身振り手振りを詳しく交えていた。好きずき自在に、ひねもすひねもす、やかましげに、しゃべくりあっていた。彼らの声はとても高かった。それはとても下品で、嘲りに満ちた感じがした。

――そのうちに、彼らの中に、一人の小人が、他の小人たちに押されて引き出されてくるのが見えた。彼は小さなこびと用の車椅子に乗せられて、全身をロープで固定されて、黒い目隠しをさせられて、猿轡を噛まされていた。そのせいでふがふがともがいている様子が痛々しかった。――小人たちは、それを見ながら、踊ったり飛び上がったり、ピーピー口笛をならしたりして、この哀れな囚われびとをからかい、そうして囃したてているのだった。――けれどもふいに一人の小人が、ふざけたダミ声をキーキー出しながら、囚人の真後ろに廻った。そして手荒な様子で目隠しを解いた。すると、秋爾が見たのは、黒い猿轡を噛まされて、もがいている、秋爾自身の顔だった。――彼は恐怖のあまりに気が遠くなりそうだった。――小さくなって、しわだらけになり、憤激した猿のような様子だったのに、それは秋爾自身の顔の特徴をかなりはっきりと備え持っていた。他の誰かと見間違えるべくもなかった。

――そうかと思うや、小人も自分も掻き消えた。でもすぐ目の前では、砂利でいっぱいの、地面がぐんぐん膨張していた。砂利たちの細かい輪郭の一つ一つに、謎めいた存在の邪悪な意志が宿っているのを秋爾は感じた。さっきの小人たちもこの中に隠れているのに違いない。――そうして砂利粒たちの一つ一つの輪郭の背後には、その数だけの、小人たちの住む洞穴が広がり、そこには邪悪な意志を持った人殺しの神の支配する広大な空間が広がっているのを秋爾は感じた。――その空間は、ひとつひとつが広大な宇宙空間につながっているのではないだろうか?そうしてその世界では、善の力と悪の力が、果てることのない対立抗争を繰り返していて、その中で無数の惑星連合やスペースコロニーが、宇宙帝国や宇宙的な大企業が、消長を繰り返しているのではないだろうか?――そうして大勢の罪もない人たちが、相反している二つの力の犠牲になって、宇宙の藻屑と消えていったのだ。――この小人たちは、このグノーシス的な悪しき造物主の邪悪な意志を体現する悪魔的な天使たちだったのではないだろうか?――そうして銀河系のほとんどは、この暗い悪の力によって、エントロピーの廃墟に変えさせられてしまっているのではないだろうか?――そうして、この地球だけが、残されているんだ、僕たちを産み育ててくれた、この母なる蒼い星だけが、かろうじて残された。――他の星はみんな悪の力によって破壊されて、地球は彼らの最後の主戦場になった。――銀河系の他の惑星たちは、みんな破壊されてしまった後で、天使たちによって、すり替えられた、まがい物になった。だけれどこの最後の戦いは終わってしまった。要するに人類は負けてしまった。人類のほとんどは天使たちの変装しているまがい物にのっとられてしまった。あるいは天使たちが造り出されたアンドロイドたちに乗っ取られてしまったのかもしれない。残された人間ときたら、本当にごくわずかなんだ。僕は同じ人間の仲間を探さなければならない。だけれど僕だって人間だ。人間なんて、そんなに強い生き物じゃない。僕はうまくやっていけないんじゃないだろうか?本当に仲間はいるんだろうか?――秋爾は昔読んだ、オーウェルの小説の筋書きを思い出す。全体主義的な国家権力に反対する人たちの作り出した秘密結社が、結局は権力に反抗する人たちを見つけて捕まえるために国家が仕組んだ罠だったのだ、というシナリオを。――この小説はフィクションではなくて、比喩なのだろうと秋爾は思う。政治団体にも新興宗教も、あるいはどんなに反社会的な集団も、今や天使たちに牛耳られている。それは天使達の機械、天使たちの作り出したまがい物の理性によってコントロールされている、洗脳団体になってしまっているのに違いない。――すべてを疑う、という考えだけが、秋爾にとっては説得力を持っていた。確かに本当に正しいのだと、信じられるのは自分だけなのかもしれない。――それでも僕には仲間が必要だ。一人ではきっと太刀打ちできないだろう。きっとどこかにいるはずなんだ。

視界がふやけて、曖昧になっていくのを秋爾は感じる。頭が痛い。眩暈のようにぶれていく。――冷ややかな液体が、額の端の、毛穴という毛穴から滲み出して、つうつうつうつう滑り降りていくのを感じる。秋爾はもうずいぶん長い時間この場所にいるような気がする。だけれどこのままでいると、自分の体がちいさくなって、竦んでいって、どんどん縮んでいくのではないかと不安になった。――ひょっとしたら、これから僕はこびとになって、この恐ろしい天使たちの中に紛れ込んで、仮面をつけて暮らしていかなければいけなくなるのではないだろうか。――だけどこびとたちは、本当に自分を仲間に入れてくれるのかと言えばそれは極めて怪しい話だ。――こびとたちは僕が本物の人間なんだって、気づくのではないだろうか?僕はこびとたちに捕らえられて、そうして僕は、結局のところは車椅子に縛り付けられたまま笑いものにさせられてしまうのではないだろうか?――そうして彼らは――軍隊蟻たちが朽ちかけた木を穴だらけにしていくような要領で、すっかりやわらかくなって、こんなにもでくのぼうになってしまった、宇宙的な誇大妄想に支配されてしまった僕の體を喰いあさっていくのではないだろうか。――こびとたちはぼくをいつでものけ者にするんだ。と秋爾は思った。昔からずっと彼らの立場を尊重してきたのに。あいつらは、くだらないことで、自分とちがう人たちや、弱い人たちを殴ったり、蹴ったり、物笑いの種にして、ひどい目にあわせてしまうんだ。

仲間が必要だ。僕には仲間が、そうだ、仲間が必要なんだ、と秋爾は思った。――何かに気づいてふと仰ぐと、住宅街の、空の向こう、ずっと向こうの空のかなたで、今から自分が立ち向かっていかなければならない、悪意の神に、敵意を持った恐ろしい天使たちに、もしかしたらたった一人で立ち向かって行かなければならないのかもしれない、という――彼がこれから待ち受けているであろう困難の予感が、何か人を寄せ付けない冷たい相貌をしている、無機質的な大人の男たちの顔つきみたいに、居丈高な様子でそびえ立っているのが、うっすらと見えた。――それは視界に現れるとほとんど同時に、こちらに正面をむけたままで後ろ向きに泳いでいく魚のように――ゆるやかに後退しはじめていって、遠ざかっていった。けれどもその様子が、まるでこっちの気を引くために、何か手招きしているようだったので、彼は周章てて頭を振り払った。ちがう、どうにか僕は生きていかなきゃいけないんだ!――それから秋爾は前を向き直した。

そうしてこの青年は再び歩きはじめた。だけれど、未来の困難についての印象は消えなかった。というよりもそれはますます彼の首根っこを捕まえて離さないような感じだった。それでも行かなきゃいけないんだ。その間に何人かの人たちとすれ違った。ある男は黒い上下のスーツ姿で、眼鏡をかけて、両足をカツカツ鳴らして歩いていた。カーキ色のボーダーのセーター姿の若い男は、退屈そうな顔つきのまま通り過ぎていった。――腰の曲がった、白地にピンクの花柄の服をきた老婆は、おぼつかなそうによぼよぼかがんで、にじりにじりと歩いていった。――けれども今や、秋爾にとっては、ひとりひとりが、彼らの動作のひとつひとつが、まがい物の扮装だった。彼らはこの世界を支配する天使達の操り人形であり、さも生きているかのように偽装されているアンドロイドなんだ。――そうして、実際、彼らの様子は、人間ではなくて、大きくて、灰色の、石のかたまりのようにしか彼には思えなかった。「どうして僕だけが生きているんだろう?こんな筈ではないはずなんだ。必ずどこかに仲間がいるはずだ。――そう、僕は感じる。背骨の付け根の腰のあたりで、光を放つ紅いエネルギーが、首筋に向かって流れ出ている。僕は生きているんだ。僕はまだ僕のままで誰にも乗っ取られてはいない。僕は自分が正しいという事を信じることができる。そうなんだ。状況は厳しい。だけれど、なにがあっても、どんな事があったとしても、僕は生きて行かなければならない。――仲間を守って、戦わなきゃならない。」

こめかみのあたりがぐわぐわと覚醒してきた。今にも何かが始まりそうな、未知のエネルギーが、なにか物凄い力が、背骨のあたりから、腹の底から、湧き上がってくるのを、秋爾は感じた。――かっ、かっ、という響きが、次々に生まれた。「そうだ、戦わなければいけない。すべてをまがい物に変えてしまう、虚無的な力と、邪悪な意志に。――人類はみんな、まがい物に変えられてしまって、エントロピーの法則に従って、消えてしまわなければいけないんだ、という、絶対的な、神の邪悪な、邪な意志に――弱い人たちを、本当の人間を、食物にしていく、理性の力に、立ち向かっていかなければならないんだ。――たとえどんなに、望みがなくても。」

悪意の神に支配されてしまったこの星の、ユーラシア大陸の片隅にある千島列島の端っこにある、この衰退期を迎えている経済大国の片隅で、神奈川県の相模原市の小さなアパートの近くの道路で、こうして秋爾は――この家族や友達からも疎外され、定職につくこともできず、大学にも顔を出さなくなってしまった二十才の青年は――自分自身のあまりにも大きく、困難な使命を担わされている人生の現実を、目の前に広がる、荒涼としている、無機質な風景を――にも関わらずに、朱色や赤や、橙色に、ゆらめきながら、流動していく宝石みたいに、滑らかな姿で燃焼していく意志の力を――一つの生命のかがやきを――感じないわけにはいかないのだった。

(2003年に執筆しはじめて2012年に完成)

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