小説 レストランの悪夢(2003年)

レストランで、青ざめていく山脈と、海を見渡せる席について、わたしはテーブルに出された、カップグラスに入っているソーダ水の炭酸の泡たちをぼんやりと見つめていた。つぶらつぶらとした音たちが、ぱちぱちはじけて連続していた。透き通っている無数の球体たちは、周囲の風景をその球面に反射しながら、はじけては消え、それからまた生まれていった。この一瞬の生死を繰り返していく柔らかくてまるっこいものたちの集団を見ていると、まるで線香花火の真似事のようだとわたしは思った。

――向こうから、黒い鉄でできた背の高い彫像が滑ってこっちにやってきて、向こうへ通りすぎていった。彫像は見たところ給仕人らしく、様々な席を移動して、注文がないかを聞いて廻っているようだった。夕暮れの時間だった。一日が、その婚約者であるところの暗闇にその全身を引き裂かれて、静かな悲鳴を上げているように、燃え尽きていく太陽は血溜まりのように痛々しい様子だった。あるいは暗闇がその婚約者であるところの一日にその全身を引き裂かれることによって夜明けが始まるのかもしれない、とわたしは思った。けれども、太陽はそのうちたなごころに収まるくらいの小ささになって、そのまましずかに消えていくのだった。

右斜めまえのテーブルで、犬と猫が、人間みたいに整った身なりの礼服を着て、二本足で椅子に座って、お互いのことを見つめ合っていた。

――見つめ合っている彼らの沈黙からは、何か破綻寸前の人間関係というような虚無的な風味が感じられ、どこか人を落ち着かなくさせる気色があった。彼らを横目に気にかけながら、わたしは何の気もなしにソーダ水の硝子コップの内壁にもたれかかっていた赤いストローを、右手の人差し指と親指でつまんで、かき混ぜていた。するとその手の先が、ちょうど中指の根元から手首の付け根にかけて、めらめらとただれて、裂けてそのままストローにかかって溶けていく。それは何か火を附けられた巻紙かなにかが、あたりを焦がしながら燃焼していく炎の舌に、舐められとろけて、滑らかにするすると縮んで行く様子を連想させた。

――そうかと思うや、わたしの手先はたちまちのうちに、蝋燭みたいにコチコチに固まり、焦げ茶色っぽく変色していき、ごつごつと節くれだった、瘤だらけの細い木の枝に変化していった。

そうして、それはたちまちまた溶け出して、熱を加えられたチーズみたいに黄色がかって、クリーム色に変色しては、どろどろになっては溶け出していった。
――そのまま右手は何度もチーズになったり木の枝になったりを繰り返している。あまりの奇妙さに、はじめのうちは眼を奪われて、ぽかんとわたしはそれを見ていた。呆気にとられたおとなしい時間が、しばらく続いた。そのうち何とかしなければいけないと思ったけれど、体はまったく動かない、特に右手は全く言うことを効かなかった。

まるで出口の見えない真っ黒い穴の中に突き落とされて、そこに無理やりじっと座らされているような気分だった。まわりの空気が、ぶよぶよした無表情な肉のようにもわっと肥大化して、かわりに自分はどんどん竦んでいく。気づくとわたしは、右手をストローに固定させたまま、茶褐色の椅子をごーと後ろに引いて席を立っていた。それからすぐ右隣の席を振り返った。そこにはひとりの、どこかで見た覚えのある少女がちょこんと座っていて、エメラルド色のきれいな瞳でこちらを見ているのだった。するとわたしの唇からは、まるで言葉が勝手に口をついて、とどまることを知らない様子で話していくのだった――「だから、どっちかにしようと思ったんだけど選べなかったんです。無理やり選ばされているような気がして、ええ、いや、いきなりこんなことを訊くのは不用意なことだし、不躾なことかもしれないけど、うまくいかないんです。こんなことを訊いても答えられないことは分かっています。そう、わかってるんですよ、ははは、そうだよ、わかっているんだ、だから早くここから消えてほしいんです。はやく居なくなって欲しいんですよ。あなたもわたしに選ばせたくないことを選ばせるんでしょう。知っているんです、これは誰のせいでもないですからね。だけどもう疲れたんですよ。どちらかにするのを。それでもこのままこの場所にいると石になってしまうような気して仕方がないんですよ」「チーズにしたら」すると機械みたいに無機質な調子で、かすれた声で、彼女はこちらの話に答えた。その時彼女は、まるで心臓に杭を打たれて殺された女みたいに、両眼を異常なまでに大きく見開きながらこっちを見ていた。

――彼女は、はじめにわたしが彼女をおそれて、信じなかったことに裏切られた気持ちと、そこから派生した烈しい怒りを込めて、わたしに話しているのだ、と思った。――なんて取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。

彼女は自分の語気の強さと、それが相手に与えた印象を計りにかけるかのように少し間を置いてから、話を続けた。「チーズにしたら、それは人に料理されて、口の中に入れられて、飲み込まれていくでしょう。木の枝にしたら、それはまとめて火にくべられたり、切り刻まれて、木造建築の材料にされて、そうして社会を支えるでしょう」それきり彼女は黙ってしまい、こちらも気圧されて、黙ってしまうしかないのだった。石のような時間が、たちまちのうちに流れて去った。

黙っている間に、彼女の肩越しに見える海は、もう何回も、明るくなったり暗くなったりするのが、視界の端で、繰り返された。まるで二つのスクリーンに空が映されて、その中で、物凄いスピードで早送りと巻き戻しを何度も何度も繰り返しているかのようだった。はじめのうちはゆっくりだった気がしたのだが、しだいに間隔がみじかくなり、今ではほとんどチカチカと明滅しているような様子だった。けれどもレストランの中は、一向にその明滅の影響を被ったりはしていない様子だった。というか、室内はいつのまにやら真っ暗になり、室内の装飾などはほとんど見えなかった。ただそれぞれのテーブルが、据え付けられたランプに照らされてぼうっと闇の中に浮き上がっているのだった。

――「ああ、こんなに時間が経ってしまった」と、頭の中でわたしは判断した。絶望的な感情があたりに広がった。

気がつくとわたしは、大声で彼女を難詰していた。「自分で決めるって言ったじゃないか!」――だけれど言っている間にもわたしは何を言っているのだろうと思った。そうしてそれは思い切って言ったというよりも、重圧にこらえ切れなくなって言った、というような気味が加わり、非難する、というよりも大声で泣き言を言うようなニュアンスになり、しかも突然言ったおかげで、言いながら自分でも迷ってしまったおかげで、うわずった調子が声に伝わった。

――わたしは何を言っているんだろう。言った端から、またしても取り返しのつかないことを言ってしまったとわたしは思った。けれども彼女は微動だにせず、こっちを見ていた。のみならず、完全に石になってしまったみたいに、沈黙していた。そのまま再び静寂が流れた。

――ひょっとしたら彼女は本当に石になってしまったんじゃないか、とわたしは思った。いいや、そうではなくて、わたしの方が死んでしまったのだろうか。――ここは死後の世界で、本当はすべての生き物が死に絶えた空間をわたしは生きているのではないだろうか。――その考えは黒ずんだ泡のように、頭の中でぐるぐると渦をまいて、わたしの思考を繰り返して中断させていった。

――すると、不思議なことに、彼女の瞳に一瞬だけ小さな光が宿った気がした。そうしてその弱いきらめきは、嘲るように、「そう、自分で決めることでしょう」と、テレパシーのようなもので呟いた気がした。

するとどす黒い怒りの感情がわたしにも湧いてきて、いてもたっても居られなくなった。「偽物め!」とわたしは思った。誰かが彼女に取り付いて、勝手にテレパシーを喋らせているのだ。わたしは咄嗟に両手を伸ばして、力の限りに彼女の首を締め付けていた。彼女は人形のように、まったくの無抵抗だった。しかも締め付けた先から曲がっていって、まるで色つき粘土を捏ね回す時のように、ぐにゃりとへこんで、ねじれてしまって、手応えがなかった。「ああ、やっぱりそうだったんだ、彼女は初めから存在していなかったんだ」とわたしは思った。悲鳴もあげずにすぐに歪んで溶けていく。それに合わせて自分の体も、両手の先からどろどろになって、クリームみたいに溶けていく。

すると、斜向かいの席に黙って腰掛けていた二匹の動物が、ここぞとばかりに飛んできた。それは勢いよく出し抜けに宙返りをして、もはやほとんど溶けてしまった、わたしたち二人の体をべろべろべろべろ舐めはじめた。

――ふと気配を感じてわたしは振り向いた。すると、窓ガラスの向こうに、誰かの影が立っていた。それは彼女だった。全体的に薄暗く、何か白っぽい服を着ていた。土気色の肌をして、幽霊みたいに蒼ざめた姿をしている。そしてぞっとするような恐ろしい目付きで、行儀の悪い二匹の動物を、じっと睨んでいるのが見える。ーーけれどももうじき、こちらの方にも眼をやるのだろう、とわたしは思った。これらの全てを物語っている、張本人の、わたしの方にも。

(2003年頃執筆 2012年推敲)

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