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芥川龍之介の「蜜柑」

あらすじ
ある曇った冬の日暮れ。横須賀発上り二等客席に乗った「私」の前の席に、いかにも田舎者らしい不潔な服装の小娘が座った。霜焼けの手には三等客席の切符。しかも小娘は、ただでさえ不快な私の気持ちを逆なでするように、トンネルに入ろうとする蒸気機関車の窓を開けてしまう。車内に充満する煤煙に怒りが込み上げる。しかし、トンネルから出た汽車の窓の光景に思わず息を呑む。倦怠から一転、新鮮な温もりに満たされる作品。

印象に残ったこと
文末に少し難解だが印象深いこんなオチがある。
「私はこのとき初めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである」
それまで蔑んでいた小娘のとった無邪気な行為、これが題名の蜜柑を投げることなのだが、それがきっかけで我に返る私。私がどんな人物かの言及はまったくない。ただ、光景と心理があるのみ。そう、この作品の面白さは光景の流れの中で気持ちが反転する爽快さだ。蜜柑はあくまでも小道具に過ぎない。題名から食べ物として描かれているだろう。そう期待する読者をいい意味で裏切る効果もある。

構造や構成の学び
落差は大きければ大きいほどよい。登場人物は対比的に描かれている。二等客車と三等客車が一番わかりやすい。当時であれば紳士と小娘も社会的な信用の格差もあっただろう。また偏見というまなざしを小娘を評することで巧みに表現している。みすぼらしい、汚い、田舎者らしい、愚鈍な。こうした形容詞を用いて小娘を徹底的にディスる。さらに時代背景。夕刊の記事にそれを語らせる。そして、主人公の心情。不可解な、下等な、退屈な人生。気怠さに追い打ちをかける小娘との出会い。気分の悪さはクライマックス。東洋思想では陰極まれば陽という。この作品から学べるのは、人物的な対比の落差、時間の流れの中の心情の落差。そしてもう一度、落差は大きければ大きいほどよい。


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